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原始仏典、中村元、中阿含経第五十六巻。「この法は知に赴かず」

教えを求めて尊者アーラーラ・カーラーマを訪ね、学んでいた釈迦族の王子シッダールタは言った。わたくしは尊者の説く法に達するのに、そう長い時間はかからずに済んだ。わたくしは、ただ唇を動かし、言葉をかたり、長老の知識をひとに解説する程度には、われは見知り、われは理解する。と、自他ともに認め、先生と呼ばれるほどになった。そこで王子シッダールタは問うた。「尊者アーラーラ・カーラーマよ、あなたはこの法を、みずから感じ実証し、どの程度にまで体現して、われらに告げて居られるのですか?」と。しかし、実にアーラーラ・カーラーマはこの法をただ信ずるだけで、われみずから知り、証し、体現している。とは告げてはいない。そのとき王子シッダールタは気付いた。この法は知に赴かず、正覚に赴かず、平安に赴かない。ただ知識を獲得し師弟を演じる具とするのみ。と。そこで彼はそれを尊重せず、そこを出で立ち去った。

若い頃に読んだ、中村元の仏典。アナンダのつむぎの地方出張講習会などで、その地方の、真面目につむぎや織りをやって居る人、教えたり個展したりしている人に、たまに、問われる。「正しいつむぎ方」または「最高に良い糸をつむぐ」つむぎ方について・・・、と、その時、中村元のこれ「原始仏典」を、いつも想い出す。

つむぎや染め織りの技法を求めてアナンダの紡ぎの講習会参加や、アナンダのつむぎの本(まだ出てない。出版は今年末の予定)を買ってくれるだろう客が、シッダールタのように・・・、わたくしはアナンダの紡ぎの本、講習の全ての技法を修得するのに、そう長い時間はかからずに済んだ。わたくしはただこの本に書かれているままに手足を動かし糸を紡ぎ織り、フェルトで物を作る程度には、われは見知り、われは理解する、と自他ともに認め、人に教え、先生と呼ばれるほどになった。そこで問うた。アナンダよ、あなたはこの本を、みずから感じ実証し、どの程度にまで体現して、書いて居られるのですか?と。しかし、実にこの紡ぎの本はつむぎの技法をただ修得するだけで、われみずから知り、証し、現実の暮らしに体現している。とは告げてはいない。そのとき客は気付いた。読者みずから紡ぎそのものを現実に感知し、証し、生活に体現できるように書かれていなければ、これらの技術を知っても、知に赴かず、正覚に赴かず、平安に赴かない。ただ技法を修得し語り、知識と方法を獲得して師弟を演じ、小さな商いを利する具とするのみ、と。そのような本ならば読者はこれを尊重せず、この本を閉じ、古本屋へ売りに行った。・・・などという事になってはいけない。のだが、これが実は反対で、地方講習などで、さて、熱心に技法を追求する真面目な人が、「理想的な糸」「最高の糸」とはどういう糸ですか。また、その「つむぎ方」を教えてもらいたい。という、何か、糸の「理想像」を持っていつむいでいる、この人が、とても尊者アーラーラ・カーラーマの方に似ているのだ。というのは、この世界に無条件で最高の糸だなどというのが有るはず無いし、でこぼこの糸は悪いと言うことも無いし、目的や好みが違うと糸も違って来るのだから、最高などという、基準は無い。糸の真実を現実に感知し、証し、暮らしに体現して、最高の糸などという、鳥かごの中に自分を閉じ込めるのは、技法を修得し語り、知識と方法を獲得して師弟を演じ、貧しい商いを利する具とするのみ。何とかそこから出て、各自が自由に自分らしさを表現できる、日常のつむぎにもどさなければおかしい。下手と上手が、悪いと良いを意味しない。アーラーラ・カーラーマは師弟を演じる上下の基準が無いと、商いが成り立たないから、特別なものの方へ、理屈を進めていたのだ。そこで、弟子となった王子シッダールタは疑問になって、その説教が日常の暮らしに、何か役に立つのですか?日常の体現は普通という事だから、と聞いた訳だ。手でつむぐのだから、明らかに、日常に得がなければ、何の意味も無い。そこでアナンダは、自分の手で紡いで編んだセーターの方が、どこの品よりも質が良く、安く出来なければおかしい。と、いつも言っている。これは王子シッダールタと同じ立ち位置でニュージーランドの、最も良い環境の牧場、動物感の優れた飼い主と出会って、最高に健康な羊の、たまに毛刈りの頃に手伝いに行ったりして、新鮮な羊毛を買い付けて来る。こういう手間と経費をかけても、直接輸入して直に客に小売りするのだから安く渡せるはずだ。まして、客は自分でつむげば出費は無い。地上最高に良質の毛で、安くつむげて、これは暮らしに喜びと平安をもたらすはずだ。特に、つむぎは技術よりも素材が命の地味な、普通の暮らしのもので、特殊な技術でも、難しい趣味でもない。暮らしの中の法、つまり、アーラーラ・カーラーマがこれを、完成された理想の技法として信じるだけの法で「われみずから牧場を知り、羊を見に行って証し、毛刈りを手伝って体現している」とは告げてはいないので、王子シッダールタは気付いて、この法は、現実の知に赴かず、正覚に赴かず、平安に赴かない。ただ、知識と技術を獲得してつむぎに値打ちをつけ、教え、師弟を演じて、小さな商いを利する具とするのみ。と言って、そこを出で立ち去った。のだ。あの真面目な人達も糸の理想像は、或る企業の小さな商いを利するかも知れないが、王子シッダールタが気付いたように、気付いてそこを出で立ち去って、自分の鳥かごから自由になって良かったと、言ってもらいたい・・・・阿