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紡ぎ車と群れる力

ヒトという動物種が、地球上に生きる多くの他種の動物たちと、大きく異なっている点は何なのだろうか。家の周辺に生きている雀やカラスを見ても、仲間が居て、巣を作り・・・そこらの小さな蜂でさえ、食物を得るために真面目に飛び回って、自分の子供を大切に育て・・・、何かヒトと違っている点が有るのだろうか。ヒトは言葉をしゃべると言っても、それは、鳥たちとは鳴き声が違う程度の事で、差は、ほとんど無いのではと思えるほどに、命有る者は良く似ている。
いつか、まだ目も開かない、裸の雀の子が巣から落ちて、子も親も大きな声で鳴いているので、拾って羊毛にくるめて、暖めてやった。巣は高い所で、もどしてやれないので、ペットショップから餌を買って来て、会社の事務の人の机に置いて、10分ごとに餌やりを頼んで、育ててもらった事があった。裸の子雀は数日で全身に毛が生えて来た。

裸で生まれる動物は珍しくないが、成長してもなお、体毛が欠落したままなのは、考えて見ればヒトだけではないか。これだ。まさに、他の動物との最大の違いは、考えてみれば、ヒトは体毛が欠落している。
太古より、現在も、ヒトは個体が何らかの繊維を身にまとわなければ、寒冷地では勿論、熱帯地方でさえ、生きて行けない。まして永い氷河期を生き抜く事を考えたら、これは、もしかして、動物の生存能力としては、決定的な弱点なのではないのか。しかし、面白い事に、現実を見れば、この体毛欠落のせいで、偶然にも、ヒトが繊維を紡いで糸にする事を習得した。どんな繊維でも糸にさえなれば、編んだり織ったりして、気温の変化に対応し易い服が出来る。自然に生えた体毛よりも、夏服と冬服のように効果的に身体を覆い、守る事が出来る。
ところが、ヒトが身に付ける繊維(服)を良く見ると、昔も今も、身体の保護だけでは全く無い。むしろ、それよりも群れの中でのその者の位置を表象する機能を強く持っている。つまり、人前に出る時に気遣う服装出費の方が、寒い暑いに関わる服への出費よりも、ずっと大きいと言う事。
体毛欠落が、偶然の結果として、身体を多様に飾る事が可能となり、優れた群れを作る能力獲得へと流れて行った。その結果、この地球上に、他の猿類とは桁違いに高度で、大きく、種の繁栄に効果的な群れ機能を獲得出来た。と言うのは本当かも知れない。これは、喜ばしい事だと言いたい所だが、その群れる事に関して、とても大きな不安が、ぬぐえない。

この「群れる」能力が、今、改めて考えて見ると、全ての個人の幸も不幸も日々の悦びや悲しみも。それだけではない、犯罪、テロ、戦争などの生きる、ほとんど全ての事が、その「群れる機能」に関わってしまっている。そして益々、個は群れの一部、そうでなければ生きて行けない雰囲気になりつつある。これがヒト種の恐ろしく危険な特徴、危ない一つの方向なのでは、と感じる。人は群れて、群れの一部を受け持って生きるのは自然な事だ。が、日本の学校教育のように、群れ適応教育が過剰となり、主体であるはずの自己が社会の小さな一部品で、そこにしか存在の場が無くなり、変更が利かないような環境が形成されてしまうと、個人の生存在は圧迫され、脅迫感を抱えて群れへの従属。いじめ体験が90%を越して、偽装適応努力の毎日となって、繊細な若い命は疲れて、もう虚偽の自己を演じ続けられず、つじつまが合わなくなって遂に、引き蘢ってしまう。
かつて権力者が、百姓は生かさず殺さずが良いのだ。といったように、労働者は貧しくて第二の生きる道は選べない、が、飢え死にはしない。とすると、本心は嫌でも、権力者の力に迎合するしか生きる道は無く、「良い子」になるために率先して旗を振り、特攻隊にまで志願する様になる。権力の、これが良いのだという不可解さが恐ろしい。

戦争も原爆も、また愛国心も忠誠心も、それで、誰が、どう得をしたのか。人々は誰も知らぬまま。庶民が何百万人と死に、暮らしを破壊されて、その真の理由を学者が追求するでも無く。真実を解ろうともせずに、やはり、軍備を整え、戦争放棄の憲法を元にもどし、オリンピックなどと言って、群れ同士の模擬戦を楽しむ。

生命は「自分」がこの世界に何かの目的で生み出された「目的的存在」ではなく、ヒトは群れをなす動物でも、生まれるのは個人として生まれる。この世に自分で生まれ出て来て、それ自体が存在の起点であり、自分の目的や意味の発生点であるという「自体存在」「自足」を、もともと持っている。やはり、ヒトは、雀の親子や、カラスの暮らし、虫達の勤勉な生き方と同じでなければおかしい。ヒトの群れが持つ危険な所は暴力に関わるもの。やはり、インドのマハトマ・ガンディーの非暴力の哲学とそれに同調した民衆の心理はかなり進化している。・・・・(阿)