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消えたクレヨンの話し。

宮崎県の延岡市は化学工場があったので、米軍の空爆で全部焼かれた。私の一家は延岡から父の曾祖母の出里、高千穂の近くの村に逃げた。村外れに農家の作業小屋「田小屋」を借りてしばらく住み、その村はずれに竹屋根の家を建てて子供7人の一家9人は住みついた。私の現世の記憶はそこで始まった。幼いその頃の記憶。いつも一緒だった兄と、その日も一緒に、兄の友達に誘われて、なぜかその日は普段あまり遊ばない、小柄な兄妹の家に行った。小さな藁葺きの農家の暗い土間に入ると、奥に明るい所が有って、その兄妹は小さな紙切れに、ごしごし色を塗りながら、明るくはしゃぐ声で、皆で、絵を描こうと言った。そこに有った、汚れたクレヨンの箱と半分ほどにまで短くなったクレヨンを見ると、兄も私も大変に驚き戸惑った。兄は苦しそうに「ああ、ここに有ったあ」とうめく様に言い、私は横で無言。・・・

それは、戦後の物不足の時に、父が私たち二人にと、美しい一箱のクレヨンを町で見付けて持ち帰ってくれたのだが、その宝物が、どういう訳かまだ使わないうちに姿を消した。兄と私はどれほど探した事か。何処を探しても見つからず、そのまま長い月日がたっていた。予想もしなかった所で目の前に、汚れた姿で見付かったのだから・・・。「しまった、忘れてた」という顔をしてこちらを見ている兄妹に向かって、兄は、重苦しく「泥棒じゃ」と言って、汚れたクレヨンは置いたまま、その家を飛び出した。悔し涙をぬぐいながら家に帰り、抑え切れない怒りを父に訴えた。(弟である私はいつも兄の横に付いて居たので、怒りも涙も、兄ほどリアルではなく、記憶は何かオブラートに包まれた世界をじっと見ていたような気がする。

父は黙って聞いていたが、感情を圧し殺した調子で「もう言うな。ひとにも言うんじゃない。それをもう口にするな」と強く言った。良いも悪いも、赦すも責めるも無く、父がその親に話すとか、別の物を買って来るなど一切無く、その事に付いて「言うな」だけだった。以後、解決などなく、何となく「良い加減な」感じは残ったが、私達は黙したままで、これを話題にした事は一度も無い。

その頃、父は行商をして一家の食料を運んで来ていた。行商と言っても戦後しばらくは物々交換だったそうだ。山村から海岸近くの町や漁村を回って、例えば山村の農家から紡いだ麻糸を見付けて入手すると、海辺の漁師村に持って行く。すると、麻糸は網の修理に使うので、とても喜ばれたそうだ。

それから年月も経って後に、父は日向市に紳士服店を開業して家族は移り住んだ。暮らしも落ち着いて来たその頃の話し。兄が同級生にとても貧乏な者が居て、学校も休みがちなので、クレヨンをプレゼントするのだと言いながら、平らな箱を色紙で丁寧に包んでいた。仕事をしながらそれを横で聞いていた父は「自分の家が貧乏だからクレヨンをプレゼントされたと、その子が感じたら嫌な気がするかも知れんよ。その子が気にしなきゃ良いんだけどね・・・」と控えめに言った。その後、兄は自分でそのプレゼントを取り止めた。今考えてみると、それがクレヨンだったという事からして、あの「人に言うな」事件の消えたクレヨンと、兄の心の奥で、つながっていたのかも知れない。

父が老齢となって、戦後の行商をしていた日々の思い出話しをしていた時に、ふと漏らした話し。村の道を、両側に稔る作物を見ながら、「食料が手に入らなくて子供が空腹に耐えるような事になったら、自分は必ずこれを盗んで持ち帰る。泥棒する」と信念のように、いつも心に言い聞かせながら家まで歩いて帰っていたのだそうだ。父は苦笑いの表情以外は、何の説明も無かった。が、この話しは、私にはとても意外な感じがして、特別な印象を残した。7人の子供達の食料を確保するのは実は楽ではなかったのだ。親の苦労を如何に知らぬまま子供達は、のんびりと育つものか。もしかして、父のクレヨン事件の「人に言うな」はその体験に、やはり、つながっていたのかも知れない。

戦後の食料不足のころ、人を裁く自分がやみ米を食べる訳にはいかないと裁判官だった人が餓死したニュースが、当時、話題になったと父から聞いた。子供心に感動した。が、それに対して父は何か言いたげに無言だった。何故だろう?やみ米を食べて生き延びた庶民の「良い加減さ」は「暮らし」または「生きる」から生じた現実の「真面目さ」で、観念的な権力者の善よりこちらが本物なのだよ。と言いたかったのかも知れない。権力側の「良い加減さ」、例えば、水俣の有機水銀の排水で多くの人や子供の命と「暮らし」が破壊された。権力側の会社と行政は事が明らかになった後も、12年間も「良い加減に」排水し続けた。これは赦せない。また、かつて政府が尖閣諸島を「良い加減な」位置に棚上げした事で、日中の経済関係が改善し、双方の労働者がうるおった。つまり、権力側の「良い加減さ」は常にダメと言う訳ではない。最近、オリンピック好きの権力志向の老人が、尖閣諸島を国有化だなどと世界にアピールし、日中経済が、観光業から商店、工場まで、人々が大変な損害を被った。この権力欲から発した「良い加減さ」が問題だ。かつて日本軍国主義が観念の「愛国」で教育し権力を構築し、結果「暮らし」をあれほど激しく破壊した。何が違うのだろう?今、日本の庶民は韓国の漁民が得するなら、竹島は差し上げて、「良い加減な」取り決めをしとけば良いと思う。しかし何が違うのだろう?・・・(阿)