に投稿

近代技術の中での「暮らしと紡ぎ車」(2)

近代化と個人性の喪失
近代技術は作業の徹底的な分割で生産効率を上げ、大量生産が始まり世界を大きく変えた。英国で産業革命が起こり、植民地主義が原料産出国を統治し始め、必然的に軍備拡大、造船産業、帝国主義がはびこり、支配国、被支配国の国民差別思想の時代が始まった。支配された国の人々は奴隷的労働を強いられた上に、原料の作物を搾取され、製品を売りつけられて貧困と差別に苦しんだ。植民地主義は世界中を徐々に大きな戦争に巻き込んでいった。日本にも黒い軍艦が開国を迫り、近代化の波が押し寄せて来た。日本政府は欧米に植民統治される危険を排して、その植民統治する側に立つべく西洋人に猿と言われても真似て産業、軍事、教育などの近代化を急いだ。

教育の近代化は、富国強兵を教育理念として、それまでの寺子屋などの個人主体の教育を排して「機械の歯車のような働き方」が出来る若者を育てるために、学校教育制度を作り上げた。現在の学校は全くその続きであり、小学生からテストテストで子供を上下に単純な点数で分別し、中高大学までに差別意識を植え付けて安定した社会的序列感覚の定着を、今だに続けている。人々の生き方を「ひとすじの路線上に目的を持って生きる」ように導いて(目的的生存在)。一方、国家の価値体系とは別の価値感、個人のそれ自体が主体であり生存在の価値であると言う自立した仏教系の深い「自体生存在」の価値体系にはびこられないように学校制度を作ったので、仏系も国の教育内容とやっぱり同じになった。ヒトは群れる才能のお陰で繁栄して来たが、近代化以来、群れの価値基準にどっぷり依存で「主体性」が弱くなり、体勢を疑う力を失っている。このまま行けば、この同じ才能でヒトの群れは滅びるかもしれない。

私達は近代化の危険性など疑いもしない。まるで池の魚がその池の水を呼吸して水を疑うどころか意識さえしないように、私達は淡々と近代社会に生きて居るが、危ない環境にどっぷりなのかも知れない。あの頭脳明晰なダーウインでさえ、彼の進化論の「自然淘汰説」は、本人は全く無意識に英国植民地主義の支配者側からの視線になっている。とは、今になって初めて解る。

大英帝国の植民地となって約三百年も搾取されていたインドの民衆に「主体を取り戻す戦い」を指導したマハトマガンディーは、何故、鉄砲でなく、毎日紡ぎ車をまわしたのだろう?

共有力・群れる力
地球環境の変化から、広大な森林が徐々に縮小し、猿が樹上生活から平原に下りて生きることになった。危険な猛獣を警戒しながら立って歩き、群れることで困難を乗り越えて生き延びてヒトという猿に進化した。実にこの「群れる」つまり、仲間に気を使いながら、知識だけでなく、喜びや悲しみ、不安や平安などの多くの情も互いに伝え合って共有すること。それどころか、ヒトの行動を決める起点である自己。そこに、その個人が生きるときの価値感覚や生存在感(生きている実感、意味、有意義だとか、虚無感だとか)などの微妙で深い情感をも、ヒトは小説や詩を書いて、芝居、歌、踊り、絵などで懸命に表現して仲間と共有しようとした。また、象徴に反応する優れた基盤(かたち、音、色などに意味を乗せて感じる能力)が脳の中枢に出来ていたので、儀式、文字、交換媒体(貨幣)などが使えて、群れを高度なシステムにして来た。他の群れる動物とヒトの違いは、この「共有力」の素晴らしい大きさと深さなのだ。

近代文明の落とし穴、引きこもり
さて、実はこれが本題。アナンダにこれまでに就職を希望して来た若者の中に、引きこもり経験の若者が、想い出せる顔だけでも多数居る。引きこもっていた家からは出て来たものの、その頭の中は依然として引きこもり構造にあるから、言う事、為すことにその人の主体が見えて来ない。又は、主体がしっかり隠されているので、話しを聞いても、本当の事が見えて来ない。従って現実を「共有」する事が始まらない。頭が悪い訳ではないのに、幼児の頃からの経験の中に、何かが自己形成されていないように見える。現実の共有がないから人と親密になれない。客や同僚と喜びでも辛さでも、また問題が生じても「共感」「共有」する事ができなければ仕事にならない。本人はとても真剣に働こうとして居たが、こちらが気長く見ていてあげようと思っても、本人が周囲から浮いて来るだけ。主体が無ければ仕事は出来ない。これらの若者達は、従属的、奴隷的、主体薄弱という明らかに近代社会の危険な落とし穴に落ちて、この時代の大事な問題を担っている。「うつ病や引きこもりになる者は、むしろ、生命からの繊細な感性と、そこの信号の受信がまだ健在なのだと考えるべきだ」「これは体験した者だけが知り得る時代的な大切な苦難なのだから、今、それと真正面に向き合って戦え」と彼らに伝えたいのだが、主体の無い所に体験は無いので、多分、彼らはまるで(一人例外は居るが)聞く耳を持ってないだろう。その現実から逃げ、ごまかし、言い訳、癒し、忘却、無視などに全ての力を費やして苦を共有できない者が、まあ、考えてみれば、戦えとは無理な話し。それを忘れたくてしようがないのだから。・・・近代社会の落とし穴の真の恐ろしさはそれ。わずかに見える主体も、甘え、頼り、利用するの三つのみ。これは、幼児の頃に親に示した生存能力のみではないか。もしかしたら、自己の形成がその頃にまでさかのぼって欠落しているのではないのか?だとすると、その自己は触らない方が良い。放って置いて忘れる。捨てる。そして、ただ現実の仕事をさせる。しなければ食べさせない・・・(?)

自分の主体をどこかに置き忘れ、見失い、耐えがたい苦しみに引きこもって耐え続けている若者がこの時代に多数発生した。その理由は何?原因は何か。自由に彼らが自分のように生きる道へ戻る方法は無いのだろうか。再び引きこもるしか道はないのだろうか。若者の顔を思い出しても、馬鹿でも良いから、楽しく生きる道へと自己を再構築、主体を取り戻す方法は有るのか?、無いはずはない。 ・・・・・(阿)