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生きた羊を売るウール牧場?飼い方指導付きで?

新緑の五月、山梨のアナンダまで奥さんの買い物につきあって運転して来られた旦那との雑談。「もしも、アナンダが牧場を始めたとすると・・・、実は、畜産に優れた社員が居るんですが、牧場をやるとなると、羊を肉にするって事もやらない訳にはいかないでしょうかねえ・・・」「そりゃあそうですよ牧場なんだからあ。それに肉を食べるからには屠殺も本当は自分でやるべきです」・・・この話題は深入りすると大ごとなので、避けた方が良い。と、思うや、さいわい奥さんの買い物が済んで話しはそこで終わった。

若かった頃、裏庭で放し飼いにしていた鶏が増え過ぎたので、友達を呼んでチキンカレーパーティーをすることにした。鶏をしめるいやな仕事を肉屋にやらせて自分はいつも平気で食べているのが、そのころ何となくフェアーでないと感じていたので、鶏は自分でしめることにした。中学のころ肉屋の同級生から鳥のしめ方は聞いていたので、その通りにやった。頭部に最も近い首の関節を、コクッと手に感じが来るまで引くとクタッとなるから逆さにつるす。しばらくすると血が首から頭に集まるので、首を順次切り落として血を出す・・・。20羽ほど絞めた。これが言葉でいうほどには楽な仕事ではなかった。羽をむしって裸にすると、肉屋で見慣れた形になっていたので、室内に持ち込んでも、それを見て誰ひとりとしてわたしのあの秘められた精神的苦労を察する者は居なかった。これ以後、わたしは二度と鳥をしめてはいない。が、鶏肉を食べなくなった訳ではない。この心の苦と日常の筋の通らない良い加減さは何なのだろう?

北海道で牧場を経営している知人が、ラム肉の注文があった時だけは、どうしてもコソコソと子羊を隠し持って屠場に行くと、ある時もらしているのを聞いた。「生まれてすぐの子羊の肉がうまいだなんてねえ・・・」と、人間の性を嘆じるような彼のつぶやきも聞いた。肉を育てる牧場の経営者のくせにだが、その心情は良く解る。ここでも心の感じることと日常にズレが見える。

幼い頃の記憶。小学校に入学前だったと思うが、わたしは九州の山奥の村で育った。前後の記憶はないが或るとき、一人の無口なおじさんの後ろについて遊び友達二三人と小鳥の罠を仕掛けに裏山に行ったのを鮮明に覚えている。大人の背丈ほどの薮を分けてしばらく進み、意外にも明るく空がひらけた場所に出ると、そのおじさんは丈夫な木の枝をバネに使って小鳥の罠を仕掛けはじめた。あちこちにいくつか作り終わると、子供たちがそれぞれ見よう見まねで作った罠に無言のまま手を加えていった。子供たちはスズメは皮をむいて焼いて食べるとうまい、などと大人から聞いたような話しをしながら帰った。次の日、独りで自分の罠を見に薮をかき分けて、ふと見ると、なんと獲物がかかっている。心臓が早打ち、一瞬、兄を呼びに家に帰ろうかと思ったほどだ。罠に首をはさまれて死んでいる獲物を慌てて外し、辺りを見回し、隠すように早足で家に帰った。兄はわたしの記憶が生じた初めから近くに居ていつも何をするのも一緒だった。その時も獲物は学校から帰ったばかりの兄に見せて一緒に興奮して獲物を喜んだ。・・・その鳥はスズメではなかった。羽の色は美しく、折れた首はだらりと下がっていた。兄は覚えているかどうか疑問だが、この獲物を得たよろこびは間もなく、言葉では説明出来ない不可解な感じへと変化して来て、結局、だれにも知らせずに二人でその鳥を手早く埋めて小石を置いて墓にした。あれ以後、誰にも話さず一度もお互いにこれを話題にしたことはない。自分の中に筋の通らない心の変化。頼りない心の一面を見てしまった最初の体験だったのかも知れない。

今になってみればこんな話しはいくらでも在る。知りあいの老婦人が戦時中の体験を話していた。若いアメリカ人パイロットが捕虜になって町の大通りを引かれて行くのを見て、町内の婦人たちは小声で可哀想にあの子にも親兄弟があるだろうに、と人垣の後ろで互いにささやいたという。本当だろうか?本土決戦にそなえて竹槍でワラ人形を突き刺しながら鬼畜米英を叫んでいた婦人達が鬼、畜生を前にして本当にそうささやいたのだろうか?そう、それは真実だったようだ。アメリカでも人がこれで死ぬのは嫌だと故意に不発弾を製造した婦人の話しとか、敵国日本人の多くの残留孤児を中国人は隠して育てた。
鬼、畜生である米兵という観念と、目の前の「若い米人パイロット」という現実存在が一致していない。敵兵だろうが獲物の小鳥だろうが、それを目前にすると「自分とのつながり」を感じてしまうヒトの心の不条理は、単にいい加減なのか、或は何かを意味しているのだろうか。

ヒトは「群れる能力」で繁栄して来た。この「つながりを感じる」能力なしに群れることは出来ない。これを昔から愛と呼んで大事にして来たが、いつも愛は不条理と怪しさと危険を伴っている。戦争するのに、どれほど大声で愛が叫ばれたことか。群れの中で生きる私たちの感性はいつも多少怪しい。目の前の現実存在からの、あの不条理な感じに向き合って、また観念で善か悪かではなくて、何かを一段高次へと進化させなければ、その「群れる能力」のためにヒトはさらにグローバル化した世界大戦を繰り返して滅びないとも限らない。地表に見える池や川の筋道のほかに、古代からの変わらない地下の水脈に、手で紡ぎ出す糸ほどの細さでも良いから、つながっている自己を育てる。特に今、これが大事な気がする。

アナンダの未来の牧場は保育園、幼稚園に飼い方指導付きで、生きたまま羊の子を売るウール牧場にしたい。