子供のころ、家が海の近くにあったので、生きの良いイワシをいつも食べて育った。カツオ船がイワシを撒き餌にするので、よく沖合いに生けすが浮いてカモメがその辺りに群れていた。近所の漁師がたまに、海からの帰りに「生きてるよ」などと言ってイワシを置いて行ってくれるのを見ていた。先日、フランス料理店で、ふとイワシの文字が目に入り注文した。出て来たイワシがオイルと香辛料で料理されているので、一瞬 不意をつかれたようにじっと見つめてしまった。せっかくのイワシなのだからこんなに加工しなくても・・・。と「感じた」からだが、これは私のイワシの記憶とそれがあまりにも違っていたということで、フランス料理の味がどうという話しではない。フランス人にとっては、イワシはこれが当たり前なのだ。私の遠い海辺の記憶がイワシを前にして、その時、とてもはっきりした「感じ」を反射して来た。
ニュージーランドの牧場のおばさんが、自分の家族のセーターを編もうとして、牧場から好みの色の羊を選んで毛を刈取って来て、すぐに紡いで編み始める。あちらでは牧場のおばさんはこうするという話しではなく、例えばの話し、子供の頃からそのような生活をして来た人が、アナンダの店に入って来ると、目に入る羊毛が染色羊毛七十余色(今、もっと色を増やそうかと話している)のトップやスライバー、混色ロール、シルク混アルパカトップなど。これを見て、その人はフランス料理のイワシを見た時の私のように、「牧場で輝いている羊の毛を何もここまで加工しなくても・・・」と「感じ」るかも知れない。これは牧場の緑、牧草の香り、羊の声などの記憶などの蓄積からにじみ出た「好み」に違いない。
中学生のころ生物の授業で細胞の選択透過膜というのを知って、ギョッとしたのを覚えている。小さな細胞の膜が自分に必要な物質を選択して取り込んだり拒んだりしている。その膜に意志が無くてそんなはっきり目的に叶った選択が出来るはずがない。進化の過程でたまたまそういうサイズの編み目の膜が出来て、たまたま機能の一役を担う所に位置した結果、あたかも「意志」のように見えるだけだ。という学者が当時はかなり居たが、今では研究が進んで、そんな単純なことを言う人は居ない。ヒトの小さな細胞の中の、小さなミトコンドリアの内膜と外膜という二重の膜を透過させる「膜透過装置構成蛋白質」・・・、こんなに複雑な仕組みさえもが詳しく分かって来て、もう、これは疑いの余地のない、とてもはっきりした意志がその仕組みに表現されている。しかもこれは単細胞生物だった頃からの記憶の蓄積なのだから、これらの事を知って何度でもギョッとさせられる。(「ミトコンドリアの謎」、河野重行著、講談社現代新書=とても面白い)。考えてみれば、誰も自分の体の細胞の中の物質の輸送の仕組みはおろか、肝臓が何かも知らずに生きて居るのだから、今さら驚くことはない。
最近、アナンダ吉祥寺店で客の相手をしながら妙な事に、実は、気付き始めたのでした。壁一面のウール棚から簡単に選び出す人も居れば、やたら意見を求める人、先生から教わって来たメモを出して選んで行く人などいろいろ居る。また、中にウール棚の毛を端からじっと見つめて繰り返し行き来して、自分の心の奥底から発信されるわずかな信号に注意を向けて、ていねいにチェックして選んで行く人がいるのでした。
私達の日常の暮しで、何かを選ぶ、また、紡ぎが好きだとか、フェルトが面白いとか「感じ」る、その「好み」で物事を選択する。その様子が、ある日、ふと、あの細胞の選択透過膜と同じではないかと見えて来たのでした。目的に叶うように選択する信号を出している選択透過膜が心のどこかに有って確かにイエス、ノーを出している。それを意識が受信しなければ自分のものは選択できない。自分の遠い海の記憶や羊の声、牧草の香りの記憶、 子供のころからの家庭や学校などでの体験の記憶が蓄積されている選択透過膜から不可思議で微妙な意志が表現される構造は何か荘厳で、全ての出発点のような気がする。
ところが、自分のその信号を気にもかけずに、・・・これも、客が原毛を選ぶ様子を見ていて気付いた事だが、自分の内からではなく外からの何か、多分「教育」などによって横から貼付けられた「情報」で毛を選んで行く。別に不真面目なのではない。真面目に世間の「正しい規準」または権威を信じて、まるで、自分の体験からの「感じ」などは取るに足らないものと、(悲しくも)自分で隅にしまい込んでしまった様な人が結構な比率で居る。
日常の大抵の事はいちいち自分の内からの信号を待たなくても、例の「みんな一緒」選択透過膜で世間に適当に合わせて生きている。しかし、もしも、ある人が、ある時、本当の体験からのわずかな信号を感じた時(ウールで何か作ろうというのは、たぶんそれなのだ)、じっと時間をかけてそれを「感じ」取って、注意深く色とか形、感触にまで具体化したいと欲し始めたとすると、それができる空間、つまり、先生や親が横から余計な事を吹き込むような事のない、安心して「自分」の内からの信号を「自分」で確認できる空間が必要なのだが、それが今はとても難しい。不足している。私の選択透過膜からはそう言う、かなりしつこい信号が出続けている・・・。さて、その空間というのは、壁一面羊毛棚に囲まれた、とても気の長い無口な店員が居る、羊毛店の空間そのものなのではないですか・・・?
(阿)会報 糸ばたかいぎ 2005年3月号掲載