に投稿

群から外れる恐怖

昔、ヒトが、まだ樹上生活をしていた頃に、落下する恐怖が脳に染み込んで、今だに、私達は落ちる夢を見てヒャッとするのだという仮説があります。それと同じように、ヒトは、猿の時代から群れて生きて来たので、親兄弟など自分の群れから外れ、はぐれて置き去りになってしまう恐怖が、私達の脳に記憶されていて、ヒトの行動を深く支配しているという仮説について書きます。

群れからはぐれる事は、昔の環境では他の動物に食われたりして、ほとんど死を意味したのでしょう。現代でも戦争ともなると、東京大空襲から六、七年は経っていたはずですが、上野駅に、まだ自分の群れ(家族)からはぐれた戦災孤児達が、たむろしていました。子供の頃に見たその風景を私は鮮明に記憶しています。小学校に入学した頃、自分のふでばこの形や自分の服装だけが周囲と違っているのが気になったり、また、夢の中で自分だけ恥ずかしい裸だったり、遠足の日に学校に行ったら、もう誰も居なかったなどという「群れから外れる、群れに入れてもらえない不安」の夢を見たことは ありませんか?。 現実には、ふでばこの形や服装が違っていても、そこらの群れに入れてもらえなくても何の支障もないのに、この不安は、古代の「群れから外れる恐怖」の記憶から来る妄想なのだという仮説です。こちらの方が、樹上生活での落下の恐怖の記憶よりもずっと、人の行動に大きく影響を与えているもののように見えます。

アナンダの客の中には、群れへの恐怖心から、自分の物を作るのに、まるで人さまがどう見るかばかりを気にして、何も自分の手作りが出来ない人や、群れの権威を付けないと不安で、群れの中のランクの世界で偉くなりたくって、公募展とか肩書きとか、大変な努力家も居ます。自分の物を作るのだから自分が良いと思えばそれで良いのに・・・。協力して生産を行い、問題に共同して当る二人以上のつながりを群れと呼ぶと、ヒトは本来、群れて生存する動物です。ヒトから「群れることの気苦労」を抜いたら、戦争の苦悩から個人的な恋の悩みに至るまで、全ての悩みが消える。・・・と同時に、(そう、何か納得し難い感じも残るけれども)、勝利の喜びや恋の喜び、人々の共有する文化に至るまで、ヒトには何も残らないような気がします。

さて、群れの力が妄想ではなく現実に恐怖となるのは、群れの力の妄想が妄想を生んで群れが個人を支配し強制する方に傾いてしまうと、その強制力はなまやさしいものではありません。例えば、「兵役」が世界中あちこちで為されますが、「兵役拒否」するのは、死を覚悟してするほどの強制力です。平和な今の社会でも、多分、例えば、登校拒否などは、群れへの恐れを抱える子供の感性にとっては兵役拒否に相当する命を賭けた戦いなのかも知れません。現実は何も学校だけが学習する場ではないのに。群れが個を支配、強制する性質を本来持って居る現実は、今さら特別に言うまでもなく、自分の日常の暮らしの内に普通に見られます。(良い悪いの判断は、とりあえず横に置いて観察すると)「私は子供を支配などしない」と言う母親も、無意識に子供の独自の感じ方に、ほめたり、少しほめたり、首をかしげたり、やんわり否定したり「正解」を暗示する巧妙さで子供の感性に、群れの規準である、善悪、上下、優劣などで、しっかり支配と強制の要素を実行しています。まして学校教育ともなれば、もともと群れを成すために必要で作った機関なのですから、当然、愛国心を教育基本法になどいう国会での議論は、今回こそ法制化は流れたけれど、そのうち、戦前の教育の記憶が薄れた頃に決まるでしょう。

さて、アナンダの仕事はと言えば、だから、「群れから外れる恐怖」なんか、平原を歩きながら木から落ちる夢を見るような妄想なのだから、徹底的に打ち砕き、はっきり、「手作りに権威は要らない」。手作りにプロなんか、もう、時代が「要らん」と言っているのだから、偉くない実用の素人が大事。群れになんか、なびかなくて良い・・・。そして、「羊毛で自分の暮らしの実用品を紡ぎ、手作りすると、ひとつひとつ出来が違っていても良いんだなと実感しますよ。羊毛にはそういう性質が有りますよ」と皆に勧める。群れ(権威または評価)から自立した個の感性がとても大事。アナンダの細胞分裂、つまり、昔の「のれん分け」を進めています。アナンダ協力店募集・・・ナンダの社員は、素人のままで、古代人のように親切、自分のままで客に接するように。

アナンダのツアーも本物の農場と現実の人とつながりを実感できる旅が主題だし、本音でお客ともつき合って・・・、アナンダのお客さんも、羊の毛を手で紡いで身にまとおうかと言う、かなりの古代人なのですから・・・。

(阿)会報 糸ばたかいぎ 2003年7月号掲載