この仕事を初めから企てて始めたワケでは無いのですが、社会から要求される「仕事」はちょっと複雑、言葉に言い難く、言葉では仕事にならない。いわば個人の内から出て来る表現を抑えて、ひとを型にはめる、または自分ではまろうとする雰囲気(文化)この近代社会の歪みを、ちょっと変えて、自由になりたがっている。これの現実の力(お客)は母親達です。
危険な、単一のものさし=怪物との戦い「これ、きれいか?」 ・・・
ずっと 以前に、友人が、或人のことを、笑い話しのようにして話していたのを、よく思い出すのですが。その友人が或人と野道を歩いていると、「これ、きれいか?」と、小さな野の花を指さして問われた。というのです。その人は司法試験を何度も受験している真面目な勉強家なので、美しいかどうかまで、六法全書に頼らなきゃならなくなってしまったよ。と、友人はその人と親しいので笑いながら話すのだが、私には、その人の心と小さな野の花のことを考えると、とても笑ってなんか居られない。その人は子供のころから、「きれいだ」と言うと、親に「この子はまたこんなものをきれいだなんて言って」とか、または「この子はこれをきれいだと言ったよ。良い子だねぇ」などと、いちいち言われたのかもしれない。それとも、生まれながらにして生真面目(?)で、自分の独断で、自分勝手になにか言うような、いい加減なことはいけない。何かきちっとした、客観的な正しい基準なしに、どうして自分勝手に、これは美しいとか醜いとか。美味しい、まずい、等と言って良いだろうか。と思っていたのかも知れない。
昔、 好き嫌いをを言ってはいけませんといって、わざと子供が嫌いなおかずを毎日作った「親切な」親が居たとか、嫌いな給食を無理に食べさせようと、一人生徒を残した先生が居たとか、日本文化の中には、個人が内から自然に発するものに対して制限を加える「いじめ」の構造が伝統的にあって、それを私たちは、加害にしろ被害にしろ、今も自分の身に着けてる、と意識した方が良いようです。
君がきれいだと感じたら、「きれいだ!」と言って良いんだよ。と、その人に言ったとする 。そういう権利が与えられている。その根拠は、・・・君は・・・六法全書にも書いてあるよ。などと「親切」に言ったとすると、それは、彼にとって、重たいプレッシャーでしかなく、もし、その人に「これ、きれいか?、と聞きながら生きても良いんか?」と問われたらどうしますか。きっと大声で「良いに決まってるよ、そのまま、誰もそのまま生きて良いんだよっ!」と自己矛盾を露呈して黙るしかないでしょう。アナンダの仕事をしていると、この事が、いつも、思い出されて、何か深いところでアナンダの仕事に関わっているに違いないのです。自分で糸を紡いで来て、こわごわ取り出して、これで良いんでしょうか。と聞かれる時、一瞬、緊張する。「先生」などと呼ばれると、「こういう野の花はきれいです、こういう花はきれいでないですよ」などと先生口調で嘘を言ってしまいそうで、ゾッとするのです。お客は糸ができた喜びを内心、自慢しに来てくれたのなら良いのですが、何かを恐れて「これ、きれいか?」と問うてくる人がかなり多いのです。その怪物は日本中、辺り一面に棲み付いていて、学校でも、街のピアノ教室や絵画教室などでも、実に幼い時から、ひとつの基準に縛り付けようとして個人の自然な内からの表現をとやかく評価しては潰している。それで利益を得る人たち、そうなってきた市場の歴史、日本独特のコマーシャリズムと企画化の性癖、その発生の背景、歴史。これを、きちっと踏まえて一つ一つ注意深く企画していく必要があります。似て非なるものが、身近にたくさんあるので、そこをルーズにしていると、きっと、いつの間にか、旧来のお教室に変質してしまい魅力を失って終わってしまうでしょう。なぜなら、新しい時代の流れはこれを求めて居て、あれは求めていないからです。カルチャーや手芸教室、手編みやお絵書き教室、旧来の紡ぎや織り教室などは成り立たない時代なのです。
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければいけない。「大きいことは、船荷以外、なんも良い事はない」のがこの仕事、共同仕入れや共同企画、製造。上から下へではなく、下から上への革袋が、この仕事なら可能な感じがします。
(阿)会報 糸ばたかいぎ 2001年冬号掲載