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手作りの国

「手作りの国」を感じる旅日本がまだ石器時代だった頃にインドでは既に上下水道を完備した都市国家がありました。この何千年という歴史、異なる民族が多重に重なって、闘い、また共存を見つけ平和に生きる道を探り、人々や動植物の関わりを互いにうまくやって行く方法を積み上げて生きて来た。その分厚い蓄積として「多様性を肯定する文化」が在る。これは私達の国、日本という島国の「みんな一緒」文化とは大いに異なるもので、私達がその環境に一歩足を踏み入れた瞬間に感じるでしょう。何か生存在の根本が違っている様な感じ。それは手作りの暮らしの文化と巨大産業組織のロボット的文化の違いのように私には感じられるのですが、皆さんはどうでしょう?

日本の牛乳パックに印刷されている緑の牧場に放牧されている牛の写真。消費者は平和に放牧されている牛の乳を飲んでいると感じるけど、実際は大いに違っていて、乳牛は一般にはとても残酷に、巨大な工場のような畜舎の、狭く区切られた一頭分スペースに一生繋がれっぱなしで搾乳機で乳を絞られて、餌代の採算が取れなくなると屠殺されて肉になるのだそうです。また、北海道の羊はジンギスカン鍋のために飼われ、屠殺されて、羊毛と羊皮と内蔵は産業廃棄物として焼却、または地中に埋められて肥料となるのだそうです。それは牧場主が悪者なのではなく、日本の巨大な経済社会では羊毛や羊皮を加工すると高価になって経済的に成り立たないので心を痛めながら捨てている訳です。

アメリカの爆撃機のパイロットが言っていましたが、イラク戦争で目標地点の上空に達すると、まるでテレビゲームの画面と同じで、照準が目標に合えばボタンを押して帰って来る。指示通りすれば良いようになっていて、地上で子供が死のうが怪我しようがそんなことは感じないで済むように工夫されている。私たちは分業化されて効率よく「感じなくても済む」大きなシステムの中に生きているから、とても危ない。これに対して、手作りの世界はとても大きな違いを感じる。手作りの世界では戦争が起きてもボタンを押す代わりに、刀を振り回して人をバッサリ切らなければ敵は殺せない。返り血を浴びたり、内臓が飛び出したりするのを見ない訳にはいかないので、自分は殺人をしているとリアルに感じないでは済まされない。相手が敵兵なのか小さな子供なのかは自分で見て感じ、責任をもって遂行しなければならない。手作りの暮らしのインドに一歩足を踏み入れると、この手作りの意味に気付くでしょう。羊の肉だけジンギスカンにして後は捨ててしまうなんて何かがおかしい・・・・。

日本に育った私達にとって、インドが大変に面白い国なのは、多分この事。日本は人が組織に従って合理的に動く性を獲得して偉大な経済大国になりましたが、インドは、ちょうどその逆、個人は社会のために在るのではなく社会が個人のために在るみたいな。人はその人の前世からのカルマを自分の人生として生き抜く事が人の道で、言わば、この地上に、その自分を生きるために存在をしてるのですから、自分がそのまま自分のように生きるのは、人に気兼ねどころか、誇らしく当然の生き方なのです。経済大国になった日本では、個人が世間に合わせないとよろしくないので、周りと違っているといじめに遭う。帰国子女がいじめられ、ひとと違う感じだけで何か言われ、皆びくびく、自分を抑えて遠慮しながら生きている。

インドの街の雰囲気、庶民の暮らしを見ると、日本のように小中学生の子供がいじめで自殺など、考えられない。仏陀の時代よりずっと以前から今に至るまで、インドの思想は東洋に限らず古代ギリシャローマから近代ヨーロッパの思想、芸術、現代の音楽に至るまで、大きな影響を与え続けて来ました(モーゼの十戒の「汝殺すなかれ」「汝、云々なかれ」の文言でさえインドの仏教の僧侶に対する戒律の文言が流れて行ったものという事は今や定説となっています)。

今、私が皆さんをインドにお連れしたいと思う、その理由は多分この事、生産効率の高い巨大組織の世界一辺倒ではなくインドの手作り文化から日本は影響を受けるべき何かが感じられるからです。ガンディーが大英帝国の商業主義と「紡ぎ車」で戦って勝利した。その意味が今ごろになって紡ぎ車は「手作りの世界」の象徴だったのかとようやく解って来た感じです。世界の平和に、これから非常に重要になって来ると思います。アメリカ人にも今、紡ぎ車が売れているそうですが・・・。