子供の頃、姉は、多分嫁入り前だったのだろうか、毎日お琴の練習に励んでいた。それが、いつも、決まったように、おもむろに練習が始まったかと思うとまもなく、上手に弾けない自分自身に苛立って、終に、パチンと駒をなぎ倒すような音を立てて練習を終えたのでした。苦痛なら、お琴などやめれば良いと思うのだが、彼女にはその向こうに目的が有ったので、意地と根性でやり通さねばならなかったのでした。
案の定、結婚してからは姉がお琴を弾いたという話は聞かない。三才からバイオリンやピアノを習わせる親の多くには、きっと何かの魂胆があって、モノにならないと見るや、きっぱり、子供の生活から音楽を切り捨ててしまうに違いないのです。小学校でも中学校でも音楽の時間が有って、音楽のテストがある。ここでも音楽は檻の中にとらわれていて、何故なのか良くは分からないが飛び立たないように管理されている。何かの役に立つ訳ではなく、他に目的があるのでもなく、ただ音を楽しみ、個人の心を奏でて悦ぶのが音楽の本質なら、上手とか下手とか、いっこうにかまうものではないはずなのに。古来、用の美などと言われて、役立つものの美については語られたが、何の役にも立たない、それ自体が目的のようなものの美についてはあまり聞いたことがない。無用の用などという言葉まで作って、無用もやっぱり用で価値づけされるなんて、本当に実用の文化なんですね。
山梨の田舎の、あまり立派でない茅ぶきの農家で、モーツァルトの見事な弦楽四重奏曲が演奏されていた。聴衆は近所の農家のおばあさんと若者数人、だれかに噂を聞いてやってきた近くの中学校の吹奏楽部の子供達、あわせて十数人だけというものでしたが、演奏家達は第一線で活躍している人たちでした。その人達は大舞台で人に聴かせることよりも、(もちろん、仕事なので、それはしていますが)曲を深く探求するのが好きだという人たちで、「モーツァルトの曲は、聴衆が居ても居なくても、演奏することで、演奏者はすでに収穫している」のだそうです。このきわめて小さなコンサートは舞台の上から人に聴かせるモーツァルトではなく、演奏者自身が何かを汲み取ろうとしているモーツァルトらしい、とても新鮮なものでした。
これは手作りの音楽会というより自然発生、ということでしょうが、きっとこの魅力は手作りに関係しているに違い有りません。ある時、チェロの雨田氏から、「知り合いのおばあさんの所で演奏会をするが、来るかい」と誘われたので、喜んで行ってみると、演奏者は四人よぼよぼのおばあさんがソファーに一人。手書きのプログラムも配られて、私の名前もあって、いたづらっぽく、私は暖炉の火の係と書いてありましたから、聴衆はその独り暮らしのおばあさん(ちなみに、歳は97才)だけだったのです。演奏は気楽な雰囲気で、おばあさんも、みんなも楽しそうで、これこそが手作りの音楽会でした。
手作りは決して稚拙を意味しない。やはりここでも「手作り」は「個人」を意味していると、思ったのでした。
(阿)会報 糸ばたかいぎ 1992年冬号(No.12)掲載