に投稿

うどんと富国強兵

戦後、まだ食料が不足している時に、私は食事の時になると「また、うどんかあ」といって泣いたそうです。私は覚えてないのですが、母親にはこたえたとみえて、よく思い出ばなしに出てきました。その頃は、運よく、例えば、うどん粉が手に入ってもほかに食べものが手に入らないので、毎日、ある期間、うどんが続くことになったらしいのです。その時に、私の神経は「うどん」を恐れるようになって、ほとんど大人になるまで、細くて長い食べ物は努力なしには口を通りませんでした。

記憶には無いのに、幼児の体験が脳のどこかに深く刻まれて、不必要に、何十年も働き続けていたのでした。この事は、ひとり幼児の心の仕組みのことではなく、大きく歴史が形づくられる過程の中にもこういう仕組みが有るのかもしれない。という気がするのです。

日米経済摩擦や湾岸戦争で、日本の主体性の無さが話題になりましたが、これは、主体性を持たずに従順でいる方が、この島の中ではうまく言った。という歴史があるに違いないのです。みんなと一緒が良く、違っていると痛い目に会う。これが不揃いで、個性的な「手作り」の自由さをどこかに押しやってしまいました。抑圧された「手作り」への憧れをうまく商品用語に変質させて儲けたのは商人だけど、それはたいした罪ではない。さて、それでは主体性を嫌い不揃いを憎み、個性の表現を罰した真犯人は誰だったのでしょう。また、それは一体どこから出発したのでしょう。これは一つの仮説です。

黒船が来て、ど肝を抜かれ、西洋の事情に明るくなってくると、福沢諭吉などの当時の指導者達は異口同音に「富国強兵」を唱えた。明治政府となって、富国強兵の柱として学校制度が出来た。集団行動の訓練をそこで始め、子供達を能力で選別する仕組みをうまく作った。目的は当然、粒ぞろいの兵隊と、良い労働者を作るためだった。よほど黒船のショックが心に深く来たとみえて、学校での集団教育はきちょうめんに進められた。ところがその上に、太平洋戦争でアメリカの大量物資にたたきのめされた。弾薬もない食料もないという体験は、もう、ひたすら私を捨てて「効率よく、組織的に働かなくっちゃ」となって、今や物資は足りて、外国に経済援助までもしているというのに、働きすぎて過労死というのが社会問題になっている。こう見ると、この社会も痛々しく、深い傷を懐えている。うどんが恐い位のことなら良いが、黒船と米軍からの、進歩と大量物資の脅迫観念から癒されて自由になるには、何とかもう、学校の先生方は富国強兵の教育をやめて、注意深く手作りの寺子屋のような個人中心の教育のほうに、方向を転換するしかないのじゃないですか。うどんの傷が癒えるのに二十年もかかった事を想えば、学校から制服が消えて、母親の手作りの服で、カラフルに通学できるような、個人の解放された社会が出来るにはどれほどかかることやら。「みんな一緒神経症」の政府は国際舞台でもまた、他国と一緒じゃなきゃと気をもんでいる。ああ、痛々しい。私達は木陰で糸紡ぎでもしていましょうかね。

(阿)会報 糸ばたかいぎ 1991年夏号(No.10)掲載