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或イタリア人と日本の文化

学生の頃、イタリア人の友人が居て、彼の世話で、一年ほどフィレンツェに住んだことがある。古いアパートにはエレベーターなど、勿論、無くて、しかも各階の天井が高いので、三階の私の部屋までの階段は広く長く、何があっても急ぐ気にならない代物だった。ゆっくり上り下りしているうちに、各階の住人と挨拶を交わすようになった。

ここの人々の生活からだけではなく、イタリアは手作り文化の国だなと、その頃思うようになった。商店のしゃれたショーウインドからも、街の道路工事のやり方からも、それは感じられた。友人とこの話になって、私が日本も手作りの国だと言うと、彼は日本に住んだことがあって、大げさに「ノー」と呆れてみせた。日本は、手作りとは正反対の国だと彼は主張した。手作りは個人の心の「表現の価値体系」に属しているが、日本には技術という宗教が有って、完璧さ、理想像、を掲げて、そこに近づき、到達しようとする「到達の価値体系」が社会を支配している。というのです。どれだけ到達したか、いつも個人は比較され、優劣を競い、差別されて、判断されている。比較競争の社会は嫉妬深く、競争に加わらない異質な者は排除されてしまう。自己を表現することが命よりも大切なそのイタリア人にとっては、どれほど日本で、窮屈で情けない思いをしたことだろう。

最近、精薄施設で原毛を注文してくれる所が増えた。施設は個人の心を中心に据えた手作りの世界なのだろうと漠然と信じていたが、施設によって大変な違いはあるが、多くの施設は手作りの世界ではなくて、残念ながら、手内職の世界だった。ある日、こんな言葉を聞いた。「うちは半端ものは出さない、織り始めと終わりが、一センチ違ってたら没にする」技術の厳しさを誇らしげにこう言われた。半端ものとは恐ろしい言葉だが日本文化をよく現している。冷たい規格への「到達の価値」の世界だった。「障害者」を叱りつけるのに「社会人として、一人前と言えますかあ」と怒鳴りつける。その言葉には「半端者っ」というのがすごい迫力で、(発音はされないが)付いていて、人として、社会人としてなどという「規範、理想、目標」みたいなものが、邪悪な神のように君臨し、個人を常に監視している様にみえた。自分をそのまま表現する価値という感覚がそこには無く、むしろ、そのまま表現されると、常識的に変に見えるから、極力、自分を隠す事を教える。施設の壁に比率の狂ったおかしな絵は掛けない。いかにも精薄施設って感じはいやですからね。という。実は、嘘でも良いから「健常者」のように、振舞って欲しい訳があるのです。それは、この差別社会で、彼らがそこに精薄施設を新しく建てようとした時、どれ程の苦労をしたか。このこと一つ取ってみても、日本が手作り文化であろうはずがない、と言ったイタリア人は多分正しかったのだという気がする。

(阿)会報 糸ばたかいぎ 1990年秋号(No.8)掲載