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素人(アマ)と玄人(プロ)

幼い頃のこと、夜明けにはまだ暗すぎる街を、納豆売りの声が滑るような速さで、遠くから近づいて、家の前を通り、去って行くのを寝床の中で聞いていました。その声は長年のうちに磨耗でもしたかのように、「とーとー」「とーとー」と聞こえて、寒い冬の朝など、気味悪くて、いろいろ想像したものでした。声の速さからいって恐ろしく背が高く、顔の長い無表情な恐い人に違いないと思っていました。決して休まないこの納豆売りが、私の玄人(プロ)という言葉の幼いイメージでした。

昔は味噌も醤油も自分のうちで仕込み、糸を紡ぎ布を織った。自分の物を自分で作っている間は、どんなに上手でも、その人を玄人(プロ)とは言わない。身につけた技術で他人の仕事の代理をして報酬を得、それを生業にすると玄人と呼ばれる。つまり、それは仕事の分業ということでした。この分業化が実に効率の高い経済社会を実現したのですが、今ほど分業が進むと、どこも玄人だらけで、まるで世界は玄人で出来ているような気がしてきて、社会は玄人が運営するから素人は黙って従順に、という感じになってくる。が、実際、けしからん話ではないですか。本来は素人が主人で、玄人は素人の便宜のために生まれたんでしたよね・・・・・・・・・。魚屋のかみさんが自分の子供にセーターを編んでやりたいが暇が無い。そこで、編物の玄人に自分の代理を頼む。また、親が子に読み書きそろばんを教えて、生きる技術を授けたいところ、親の代理を寺子屋の師匠に任せる。つまり経済社会に組み込まれた代理業というのが玄人の本分で、本来、玄人のものは代用品なのです。例えを挙げれば、目の前で果実を絞って新鮮なジュースを作るのは素人。天然の汁だし、すぐ飲むのだから、製造技術や、保存、流通、管理など、何の技術も要らない。が、玄人は自動販売機のジュースのように、百円で、どこでもすぐ飲める見事な「代用品」を技術で実現する。玄人の女は愛しい人の代理を務めるが、客に自分の個人的な本物の心を与えはしない。それは客にとっても危険で、玄人として行儀が悪いし、第一に、それでは身がもたない。病院で働く看護人も、肉親を看護するような細やかな気配りができたとしても、その気配りは玄人の技術であって肉親の心ではない。看護人は家族ではなく家族の代理なので、それで良い。本物の心を排除して、技術で代用品をモノにするところに玄人の由縁がある。さて、本物の世界では、玄人の女も不器用に本心で恋をし、看護人が自分の母親の看護に疲れる。主役は素人で、出し物は、代理の利かない本物。この劇場は玄人の経済社会とは別のところに悠然と在り続ける。「暮らしの手帖」の花森安治は戦争を体験してから「個人の日々の暮し」が何よりも大切なのだと考え始めた。そこで彼は、社会の為になる個人を育てるのではなく、個人の暮しの為になる社会を作ろうと考えた。で、彼は素人の暮しの為に玄人を監視せねばと、監視の玄人になった訳です!

(阿)会報 糸ばたかいぎ 1990年夏号(No.7)掲載