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アナンダコラム(2022年夏秋号)

チコちゃんに叱られる。と言うテレビ番組を見て、「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」​と言う変な人形に対して、「ぼーっと生きてて何が悪い!​・・・「俺の命は俺のものだ」と開き直って言う子供は居るのだろうか?。チコちゃんに叱られる。と言うテレビ番組を見て、「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」​と言う変な人形に対して、「ぼーっと生きてて何が悪い!​・・・「俺の命は俺のものだ」と開き直って言う子供は居るのだろうか?

昔、父が気になる事を話してくれた。まだ彼が若い頃、日本軍が満州に出兵して勝利したとかで、父の住む町の町内会や婦人会が、お祭りムードに盛り上がって、チョウチン行列で、街を練り歩いたそうだ。父は、戦争に反対だったので、それに参加したくなかった。ところが周囲の雰囲気は、反対などと言える空気ではなかった。その時の「大衆の心に生じた群れの力は恐ろしい」黙って「逃げるしかないのだぞ」と、話してくれた。これは、街の人たちにとっては、ただの世間のお祭りムードだったのだろうが、不参加の意思などは口に出来ない、戦争中の行列だったそうだ。

これは、例え話だけど、現代の、不登校児、引きこもりの子が、目の前の社会、学校などの群れに入りたくないと感じたとしたら、これは仮定の話だけど、この精神現象と、当時の群れの力に対する父の体験と、通じるものが有るのではないか?「逃げるしかないのだ」と言うこと。・・個人が権力者の指示に服従する群れの中に入るのは、戦時体制だけとは言えない。日常の社会体制。環境、例えば、今、テレビのどの番組を見ても、画像の何から何まで評価ムードが漂い、実にお菓子や料理の味にまで順位づけ、合格、不合格、優れてる、劣って居る。優劣、正誤、上下、順位づけなどの、価値基準が流れ、定められて居る。何の必要があってなのか?天然自然の神経ならば、人によって異なって居て当然なのではないのか?日常の空気が、ほとんどの人は、慣れて居るので気づかない。テレビの雰囲気が、ああなってきたら、もうその空気を変えようとしてもダメ、ムリ。「逃げるしかないんだぞ」​。もしかして不登校の子どもの繊細な感性では、そう言った社会は、息がつまりそうなのかも知れない。不登校児はまさにこのことを社会に警告して居るのではないか。

ブッダは「服従するな」​と言った。さらに「真理にさえ服従するな」​と言ったそうだ。インドで聞いたら、なるほど、と思ったが、日本でこれを聞くと「ブッダがそんな激しい事を言うだろうか?」​と、疑いがどこかに生じる。それは、多分、日本の空気の中に「みんなと一緒」​従順に「服従」​するのは悪くない。というムードが有るからではないか。

インドは哲学の国なので各自の生命が、子供でも大人でも、何族の人でも個の自立。それは自立こそ「存在」​を意味する。人の存在は「欲する」​の事。これが「個人」​なのだ。ブッダが言って居るのだから、ブッダにも服従してはいけない。自分で自分の欲するを見つけること「真理にさえ服従するな」​も、激しい言葉には聞こえない。なるほど、みんなが自分の本音で真面目に、お互いに議論しても、服従ではなく、自分が納得して生きろという事だ。理解して自由に生きられる空間は素晴らしい。自然から生まれ出た自分の感性こそ、最も大事な信号なのだ。それを観念では無く体現すること。服従してはいけない。アーラーラカーラーマという仙人にシッダルタ(若い頃のブッダの名前)​は問うた。貴方のお説教はあなたが実際に体現されたものですか?

​仙人は黙していたので、シッダルタはそこを去った。

このムードをアナンダの中に定着させたい。できるだろう・・・・か?​。ここは日本なのだから難しい?​・・・だからこそやり甲斐がある。

私はインドの大学を去ってイタリアのフィレンツェまで独りでバスや汽車を乗り継いで、途中の町々に留まり長い旅をした。インドを出て、パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、エジプト、ギリシャ、ローマ、フィレンツェその旅の途中で体験した貴重なことは、国や宗教や貧富に関わらず、あらゆるところで親切に出会って感動した。それは普遍の庶民の日々の暮らしから生まれた「群れの心」​は地球上どこでも共通の群れの情なのだ。と解って感動した。

パキスタンで、中学校の美術の先生から声をかけられ美術の授業をした。砂漠の道にポツンと有ったお茶屋では、現地の小銭が無くても只でお茶を、「遠慮するな」​と飲ませてくれた。アフガニスタンでは鍛冶屋のおじさんから彼の仕事中なのに鋼の打ち方の貴重な体験をさせてもらった。食堂の店員たち、郵便局で、言葉が通じないので、周囲のみんなで助けてもらって、日本に荷を送った。などなど、そこの人々の親切な心は庶民の日々の暮らしから生じた群れの宝物なのだ。イスラーム(ムスリム)​の庶民はアルカイダみたいな強権的な権力の型にハマった人間とはまるで違う。そんな人に会ったことはない。ここで書けないが、庶民の日々の暮らしの現実から自然に出来た「群れ」​その小さい群れの内容は世界中どこも感動的に同じだと言うことを体感したのは大きい。忘れられない。

国家という大きな「群れ」​部族、宗教団体、政党など観念的な権力が権威で成り立つ大型の群れには、戦争という不可解な殺し合いの歴史が付いて居る。しかも、定期的に発生して居る。日本でも戦争は過去のものと感じて居るかも知れないが、現実に、今もアメリカの協力を得て、人を殺す機械、鉄砲や爆弾、戦車や戦闘機などを、真面目に準備、訓練して居る。群れて生きるヒトの群れに、当然、群れを統括する権力者(機構)​が存在し、その権力者には、住む家から服装、生活の道具、儀式に至るまで、それらしい権威を示すデザイン、芸術品が制作されて居る。実にその努力には感心させられる。あの有名なレオナルド・ダヴィンチはフランス王朝に大きな家を与えられ、そこで一生を暮らした。彼は芸術家つまり権力へのご奉仕が仕事だったのだ。他の有名な作家も、芸術の仕事とは権力者の権威付け業務だったのだ。旅をしながら、大陸の各地の有名な芸術品に触れて悟った事は。アナンダの仕事は、庶民の日々の暮らしのために作る人々のために、多様で美しい素材を世界中から集める仕事だと言う事。大きな群れに対して、アナンダの心は、はっきりと庶民の日々の暮らしから生じた現実の(暮らしに根付いた)​小さな群れを大事にし、はっきり「庶民の暮らし」​の方に向かって仕事をする。(阿)