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「後で気が付くネション・・!」就活中の君へ

子供の頃から何かにつけ「ああ、そうだったのかあ!」と物事に後で気が付くと、兄たちは「あとで気が付くねしょんべん・・・」と言って笑った。 私は今も変わらず、自分で始めた事でさえ、後でその事が別の角度で見えて来たりして「ああ、そうだったのかあ!」と気付くことがよくある。ネションベンなどと不都合な事でなく好都合の方が多いように思う。例えば「後で気が付く運の良さ」とか「後で気が付く周囲の助け」または「後で気が付く女房の力」「後で気が付く褒めの魂胆」等々。

すべての事は目の前の現実にそれを見て感じない限り何も気が付くはずは無い。なぜなら、頭の中で考えた事は、まだ脳の中の虚像で、自分の目の前の現実に一体どれほど反映されるものか。自分は一体何をやりたいのか。やろうとしているのか、考えて居てもダメで、本当は全てやって見て真実は「後で気が付く」しか無いのだと思う。

この6月に“Ananda Village Crafts Pvt. Ltd.” という名前の会社をインドで立ち上げた。これは、丈夫な紡ぎ車を製造するには木材の乾燥と貯蔵が不可欠。そのための会社が必要となって作った。そのつもりだったのだが、現実に登記が完了して、新会社の定款を読んだりしていると、インドの町や村で普通に、色々な活動が可能だと実感して来る。話しは、気になっていた村の綿糸を紡げる人達の手に仕事が来ない事、カディー布が効率を求めて部分的に機械化し始めて、昔の感触が無くなって来たのは知っている。これはチャンスかも知れない。木工も手仕事部分は村の職人達に頼むので、自然な流れで、村の人の綿糸の手紡ぎの話しに移って行った。 インドにはもともと綿花が自生していたし、綿の手紡ぎが村人の暮らしに普通に定着している。

今までアナンダは個人の規模で綿花を買ってカード屋にタネトリ、綿打ちをしてもらってから村に運んで、婦人達に内職として紡いでもらっていた。ウールも村の人達にスピンドルを渡して紡いでもらっている(その毛糸は吉祥寺店で売っている)。今や自分たちの会社が出来たので、これからは事情が大いに変わる。綿もウールも産地に出向いて一年分の量を卸値で買って来て保管出来るし。急がず淡々と、出来た糸を倉庫に集め、何百キロか貯まったら糸の撚りを見て、太さを見て、自分たちの好みに分別してから手織りの爺さんの家に持ち込む。布は糸がいのちだから、こうすれば昔のままの良い感じの布が自然に生まれる。

この環境が整うと、多くの村人とアナンダの相互利益の関係が、発展するかも知れない。まずは「手紡ぎ手織りベッドシーツ」を淡々と織ってもらって、実用価格で吉祥寺店で売り出す事から始めよう・・・。材木貯蔵は風通しの良い一寸広い倉庫があれば事足りるし、手紡ぎ手織りの工房の裏でかまわない。会社のイメージが大きく変化して来た。スタッフのひとりが、アナンダの客が滞在出来るゲストハウスも工房に作ろうと案を出して来た。もしかしてこの会社は楽しくなって「後で気が付く天の恵み」かも知れない。

思えば去年の7月、吉祥寺にアナンダ・カディグラム(KHADI GRAM=インド語で手紡ぎ手織り村の意)という綿生地の店を開店した。アナンダは紡ぎ車と世界の原毛の専門店だが、冬の羊毛に対して夏の綿布が加わった程度にしか思っていなかった。しかし開店から一年目に、ラジャスターンに現地会社が出来た。その辺の村々には人脈があるし手紡ぎ文化が根付いている地域だし、当然その事を「考えて」先を見通して計画した。ように見えるかも知れないが、本当は、やはり、ほとんど考えず、目の前の今の流れに真面目に応じて居ただけ。これは一部分を除いて、まだ、頭の中でテレビの映像のように「考えた」ことにしか過ぎない。現実はいつも「考える」ようには動かず、貧弱で空虚なもの。「考える」より感覚的に、動いているものを捉えて、時がたって、何か「後で気が付く」のが自然だと思う。

「われ考う故にわれ在り」と、自己存在の証明を「考える」から出発した人が居たが、普通では「考える」が、そんな風に、まるで鉄砲玉のように突然飛び出して来る事はない。何かを「欲する」からそれに付いて考え、その「欲する」ものの実現のために考える。彼は頭の良い人だから、自分が考えている、その「考える」の有効範囲を知っていたので上手に避けたのに違いない。「欲する」は「考える」とは異質なもの。「考える」は現実から離れて数学のように紙の上で辻褄を合わせられるが、「欲する」は無理。目の前の現実との関りで形を変え、時に気まぐれに変化し、当てにならないものかと思うと、その根底に大自然からの不動の「欲する」が横たわっていたりする。実に捉え難く、いい加減で、安易に信じられない。が、「欲する」が無くて生命は無く、我の存在は無く、それが無くては実に世界に何の意味も生じない。

自分は人生に何を欲して居るのだろう。自分の生きる目的は何だろう、と真面目に内に秘めて考えている若者が時々アナンダに面接に来る。それは、「欲する」を考えても無駄。それは感覚なので、体で何でもやって見て感じるしかない。「欲する」は周囲に反応して変形するもの。親は子供の「欲する」を、せわやき小言褒め言葉で自分の意向にはめる。すでに君は学校教育で産業社会の型にされている。型を破れなければ大人しく。米国奴隷制度の時代には綿花の収穫労働を目的に奴隷に子を産ませ、奴隷教育がなされた。従属を美徳とするドラマも生まれた。自分は目的を持って生まれ、目的を担って生きて居る。と言うと良さそうにも聞こえるが、目的を持って産まれて来る気の毒な奴隷のようにも聞こえる。日本でも軍国時代の教育は自爆攻撃を志願する個体の形成をも実現させた。また、兵士の予備数が必要と、政府は「産めよ増やせよ」政策で、国民は子を多く産んだ。(現在も少子化対策大臣が居て、将来の経済対策?)ま、そんな事は置いといて、自分を産業社会の型に無理にはめないで、一回の人生なのだから、まずインドに語学留学(ヒンディーと英語)はどう?留学費用は安い。多くの事に出会い、体験して自立自営を目指すのはどうだ。インドで会社をはじめるか? ・・・(阿)