に投稿

子供達に価値観の多様性を、一度は、日本から連れ出して体験させよう。

先日の地方出張講習会での事。昼休みに外のテラスに買い物客、運転で付き添って来た旦那さんたちや近所の人たちで混雑していた。私の近くで、真面目そうな男の二人がこんな話しを普通に淡々としているのが聞こえて来た。

「うちに置いといた、こぶし大の石に、ある日、穴があいていたんですよ。その穴が複雑で、人の手で彫れるような穴ではない。すぐ分かりましたよ。私の家に住む神が彫ったもので、神はここに居るよと、信号として彫ってくれたんですねぇ。そんな事、驚くほどの事ではありませんよ。あちこちでよくある事なんですよ・・・・」その言葉を聞いていた相手の男の人も、「そおですかあ、そおですかあ」と普通に返事しているので、私はそっと、しかし急いでその場を離れた。目が合うと、何か大変そうだったから・・・

岐阜県の神岡鉱山の地下1000 メートルもの深い鉱道跡に、世界に誇るスーパーカミオカンデという大きな施設がある。そこで、宇宙から飛んで来るとても小さな物質ニュートリノの存在が確認された。理論的に、計算上では存在するはずだとされていたのだが、観測されて確認されたのは初めて。世界中の物理学者は胸を熱くしてスーパーカミオカンデを讃えた。さらに、日本、アメリカ、韓国の物理学者が中心になって、その小さなニュートリノに重さがあるという事も、この施設でやっと確認されたのだそうだ。それがどれほど微小なものかというと、酸素原子や水素原子の大きさが一億分の一センチほどなのに比べて、それよりずっと、さらに桁違いに微小な物らしい。こういう精度の高い物質の世界に、私達も物質で出来た肉体をもって生きているのだが。

さて、この話しから、家に置いといたこぶし大の石に穴をあけてくれた神様の話しへとは、かなりの距離があってつながりにくい様に思えるが。しかし、石に穴の話しは詩か童話。または心理学の話し。別に人に迷惑する訳でもない。ついでに、念力の話しも、1 グラムの物体が1 ミクロンでも念じて動くような事が、現実の世界にあるとすると、それは大変だ。計器類の微小な構造からして、まず飛行機は危なくて乗れない。空港でのボディチェックに加えて、念力チェック!も必要になってくる。念力行者は日本公演に飛行機では来れないことになる。これも別に、芸能の世界なのだから・・・。

今さらの話しかだが、世界は物と心の二重構造になっている。一つは物の世界。精度が高く、人の欲に関係なく正直で1+1=2 の信頼できる世界。もう一方はそこに生きて居る人間の心の世界。こちらは柔軟でとても良い加減。時に1+1=2.5 くらい欲すれば平気でやれる怪しい世界。物質の世界が無くては何も無いが、この怪しい人間の心の世界の方が、面白いどころか、これ無しには全てが、物質の話しも宇宙や星の話しも、全く意味が無くなる。またこれが善も悪も、戦争も平和も造り出すのだから。

物と心との二重構造の下に、さらに心の世界が二重構造になっている。古代から中世、現代に至るまで、神様や奇跡の話しは地球上には山ほどあるが、巨大な国家から部族、家族に至るまでの現実の暮らしに、それは「群れを束ねる効果」を持った。心は二重の仕組みになっているから、それが真実であれウソであれ、実際に暮らしに効果を上げている間だけ、人はその「ウソ」を平気で、むしろ価値として受け入れる。先の太平洋戦争の末期、敗戦の色濃くなった時には、日本のニュースは戦闘結果について常にウソを流した。それに群れを束ねる効果が在るあいだは、人々は、真実として聞き続けた。真実に気付いている心と、そのウソ放送を信じる一方の心との二重構造。

高度経済成長の時代に生まれて育った両親から、今の若者達は生まれた。自分の愛する親達も友達もその親も、学校の先生たちも、全てが能力を比較分別する。その眼で子供達を見る。生産性視点からの能力テストで分けられるのは当然の世界。子供達が物心ついた頃から「子供は褒めて育てよう」などと、したたかで高度なやる気教育技術でやられ続けて来た。多くはこの事にも慣れてしまって気付かないかも知れない。もし、私が「客の作品は下手でも褒めよう」などとアナンダの吉祥寺店でスタッフに言ったら大変だ。自然な真実の対話の中でこそなのに、営業上または教育上の褒め言葉などは、初めから魂胆がバレている。本来、褒めるという行為自体、上の立場から下にランクをつける「上から目線」の格差社会のものなのだ。褒めるのは時に失礼なのだが「褒められたいから働く」ような従属的な個性を育てるのが、近代教育の目的の一つだったので、暮らしに何らかの効果がある間は、続けられて当然なのかも知れない。心の二重構造のうち、真実の感性の一面が強い子供達が、この世界を、どうも怪しくウソっぽく感じ始めている。とても息苦しく感じ、苦痛を訴える者達が多く出て来た。
そのうち肉体も抵抗を始める。これが人の心の一面の現実だ。が、あまりにも永年定着した産業社会の中で、それは心の奥に押し込めてしまい、変だとは考えない。追求は全て子供自身に向けられ、ウツだとか引きこもりだとかの病名で、治療がなされる。子供はけなげにも、必死で自分を社会に合わせようと苦痛に耐え、また、在り得ない神の奇跡や魔術を信じて耐え続ける。親も子も、内心この事に気付いて居ても、外の体験を持たないから、そこから出て生きられるのか、不安が勝って口をぬぐって無知を装う。

子供達を一度は日本から連れ出して、価値の「多様性」を体験させる必要がある。インドに良い関係を築き、稼ぐ力も考えたパイプ役の仕事を今、友人達と計画している。・・・・・・(阿)