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いい加減さと創造性

吉祥寺の店でフェルトの講習が始まり、自分で色を選んで下さいと言うと、色が並んだ染色原毛の棚の前で不安げにうろうろしていつまでも決まらない人がたまに居る。じっと自分で決める時間はとても大事なのでいつまでも待ってあげたいが、それだけで終了となっても時間料金をもらっているので気の毒。そこで好き嫌いは頭で考えてもダメで、いい加減に当てずっぽうに決めるように言う。とにかく決めて進んでみると自分とその対象とのやりとりから自分の感じが分かって来る。嫌いな色だったら、次は違う色で作ってみれば良いと言って上げる。

・・・・アナンダのレインボー染めセットを買ったお客さんから染料10グラムに対して水は何ccお酢は何cc入れるのですか?と電話がたまにある。適当で大丈夫ですよ。水が多ければ色はウスくなるし酢も適当で大丈夫です。と、普通に答えると、その客は声を強めて、そんな良い加減な事では困ります。きちっと書いておくべきなのに、こちらが電話して聞いているのに何ですか、良い加減で良いとは。子供達にどう教えるのですか。この人はいい加減、適当が悪い事と信じて疑わない。正誤、善悪は分かるが、その基準が出来た背景と意味は受け付けられない。

感覚的に創造的であるには、一面良い加減な性格が必要な事は確か。それでだと思うが、美大生はほとんどがいい加減の才を持ち合わせている。以前に何年も未払いの美大生が居て、しかも未払いのくせに重ねて注文するから金額が増えてしまっていた。荷を送る方も送る方だが、請求書を出しても振込みは無く、強い電話をかけると少し入ってくる。こういう良い加減なのを許していてはコストが上がって値上げの原因になりかねない。皆さんに迷惑だ、と名簿から抹殺して5年も6年もたって、もう皆が忘れてしまった頃、なんと、彼から残金、全額の入金があった。ダメ人間と言って悪かったよ。何か訳があったに違いない。根はまじめな人間なんだろうねえ。・・・やっと職にありつけたのかも知れない。会って顔を見たいねえと言うと、スタッフ全員がやめてやめて、アナンダで働きたいなどと言い出すとめんどうだから。いい加減な人は仕事に向かない。・・・

出たとこ勝負、行き当たりばったり、その場しのぎ、当てずっぽう、いい加減、適当、見え透いた言い逃れ。これは、誤解されるといけないんだけど、インド人と付合っているとまさにその通りなのだ。その形式でふだんの家族や友人との誠意ある付き合い愛情ある助け合い、生業までもが進んでいる。いい加減なその場しのぎの言い逃れで誠意ある付き合いというのが理解し難いかもしれない。が、考えて見ると生命の活動は全てその場しのぎ、当てずっぽう、いい加減ではないか。例えば害虫が農作物を荒らすので、とりあえず殺虫剤を作った。作物増産を得てしばらくしてそれが人間に害になると分かって再びその場しのぎの新しい薬物をまた作ってしのいで居る。保険制度とか、CO2削減など政治の全てはその場を何とかしのがねばならないのだし、明日にはバレてしまうような言い訳か、10年後にバレるか、それが関係する時間の長短の違いだけで、巨視的に見ると生命がその場しのぎでなかった事など見当たらない。全てがそうだと人類は腹の中では気付いているので、とても不安なのだ。何とかイエスさまやムハンマドを頼んで慈悲深く慈愛あまねく絶対不変の創造神について語ってもらったりしている。そして、その絶対不変の善なる基準の中で暮らすのが窮屈になった西洋人が実存主義という、その人のその場の現実存在を最も大事にして生きる新しい生き方を言い出してその場をしのいだ。インドでも600年ほど昔にバクティムーブメントと言われる実存主義(もともと実存主義的風土だから誰も実存主義とは呼ばないが)の文化変革が起きて今も続いている。黄色い衣を着て一弦琴を持ったバウルと呼ばれる吟遊詩人または一種の遊行僧などに引き続がれている。日本でもアナンダを始めこの流れが始まっている。