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個々の多様性を大切にする文化と、生産効率のための教育分別文化

もともと多様な大自然。その中に生きる生物たちは、可能な限り互いに生き方を尊重し、排除せずに、葉を食物としたりして、お互いに生きようとして居るように見える。 が、人間やアリ、蜂などの、大きな群れで生きる種は、少し違った一面を持って居るように見える。人間が、今でも地球上のどこかで、「戦争」をやって殺し合って居るのが、つまり、不可解なのだ。もしかして、群れの行動の中には、他の群れとの戦いを好む「権力欲」が存在して、そこから生じた、理由のない戦争。つまり、殺人欲のような一面が、在るのではないか。身近な話、相撲やボクシング、バトミントンやテニスなど、まあ、オリンピックの全ての種目。とても面白いのはなぜだ? また、名作の彫刻から、甲府駅前の銅像まで、人を殺す刃物を格好よく持って居る。 日本の武士道とかも、伝統的な人殺し道具の使い方。マナーとして、土下座だハラキリだ、指詰めだと、明らかにヤクザ文化だ。それが悪いと言って居る訳ではなく、その真の理由が、どうも解らない。

群れるのは、自分たち個々の毎日の暮らしが良くなるために群れを工夫して、機能させようとするのだが、現実はその、強い群れへの欲望が個人の幸福をはるかに飛び越えて来て居るのではないか。国から明治時代に、富国強兵の人材育成の仕事を任された「学校」なのだけど、目的に沿った教育成果を上げて来た。その頃から、その目的が、もしや、今も、そのまま踏襲されて居るのではないか。今は、群れの中の個人の暮らしに無理が来て、可哀想に、神経を傷めて不登校になってる子がたくさん出て居るらしいが、国はどう考えて居るのだろうか。それにはそれらの子供の施設を作れば良い、などと思って居るのだろうか?。最近、道徳教育まで、学校では始まったそうだけど。それらの仕事は全部、目の前の個人の、日々の暮らしを幸せに守るために為されて居るものだろうか? 個人が感じ、判断する主体の生が、更に小さくなって、個が貧弱になると、群れ自体が全体に迎合するストレス集団となって弱体化して、どこからか戦争を好む権力欲が表面に出て来る。と、危ないのは確かだ。人に点数をつけて分別配分する役目を、国から請け負って居る学校はそれを断る訳には行かないだろうから、せいぜい、生徒の反骨心を育てるように、勉強も自分の興味を中心に置いた主体的学習法を開発して、物事の裏の真実を見抜く力、個人の自由、個人の尊厳、自立力。それは、実は自分の飯を自力で稼ぐ力の事なのだが、つまり、食えないなら服従しかないのが現実なのだから、それを、(まだ、アイデアなのだけど)、非暴力徹底抵抗の、マハトマ・ガンディーの国、インドに、その国際塾を建てて自立を教えてはどうだう。