梅雨の季節が来る今頃の山梨の野には、白や黄色、赤、紫色などの花がいっぱい。何か、こちらに向かって言って居るように力を込めて咲いて居る。多分、虫たちに向かって、美味しい蜜をやるから、ほら、こちらに飛んで来て受粉作業しなさい。と、言って居るに違いない。または、人に向かって、どうだ、綺麗だろう。花畑に植えて種子を増やして、そこら一面、一色にしないか、なのだろうか?

「命」とは「欲する」ことを意味して居る。ところで野草はともかく、人間は何を欲し、誰に対して何を言ってるのだろう? 子供から老人まで、「これ見て、見て・・・僕すごいでしょう」と自分を周囲にアピールするのは、まさに野草に似て居る。しかし、これは群れを形成するヒトの習性で、群れの中に自己の存在場を築こうとして居る。
欲するという話だが、ドイツの有名な哲学者デカルトが「我、考う、故に我存る」と言ったのは、存在の始まりの話ではなく、幾何学者が直線とは何かと確認して、確かな幾何学を進めたように、彼の自己の存在を確認して、次に進んだだけの事なので、「存在」とは何かの問いとは別の話なのだ。存在自体を確かめるのなら、何も欲することなく「考う」は生じ得ないのだから、「我、(何かを)欲する。故に(それを)考う」となる。「欲する」が存在の原点なら、実に、人は何を「欲する」かと問う。つまり「存在」は群れるに関係する「喜び」を意味して居る。そこに発生した流れは喜びなのだ。
古いインド哲学の言葉に、驚くべきものがある。それは「存在」を動的に捉えて居る。「宇宙に満ち満ちたものがあって、そこに一点の「無」が生じた。その時、満ちたものが「無」に向かって流れはじめ、「存在」が始まった。この流れを「存在」また「アーナンダ」とも言う」と有る。「宇宙に満ちたもの」とは、もしかして、最近、世界の天文学が問題にし始めた「ブラックマター」の事かも知れない。だとしたら驚きの極みだ。形のない、物体として観測できない、しかし重力だけは有る不思議なものなので、ブラックマターと呼ばれるが宇宙に満ち満ちて居ることは、今、天文学の世界では疑いのない確かな事。これが、現実に宇宙に満ち満ちて居る。その中に「無」が生じ、流れが生じ、星雲を形成するのではないか。(現代天文学)。まさに、古代インド哲学が言って居るのは、そこに発生する「流れ」を「存在」「生命」「喜び(アーナンダ)」と呼ぶ。と言って居るのだから驚きだ。さらに、その先の到着点は「無」だと言うことでしょう。宇宙の話なのだから。
はっきり言えることは、ヒトは群れを成して生存を有利にして、楽に暮らして居るのだが(?)独りでは猪や熊は勿論、狸にさえ噛まれて負ける。群れを形成するとアフリカ象より大きいトラックで、物を運べるし、電車ほど大きい機械を空に浮かべて、鳥より速く飛ばして居る。だから、自然と、ヒトは群れに気遣い、社会の掟に縛られ、良い子になろうと懸命に努力する。群れの中に自己の存在場を築き、保つために、大勢が多大なエネルギーを支払い始めて居る。が、気をつけないと危ない。大きな群れは定期的に戦争をし、地球のどこかで、今も、殺しあって居る。個人の生存を有利にするために群れを作り出したのに、どこかで逆になって、巨大な航空母艦、戦闘機、武器、原爆などを製造するのに、個人から、どれほどの税金、労力を取って居るか、その不合理な理由が、まだヒトには解ってはいない。
何とかして、この社会へのアピール、存在場作り、社会からの評価視線から脱して自由になる。評価社会から出て(鳥かごから出て)、自分が使うものを手作りする自由さ、豊かさ、これが広がって行く手作り環境を狙いとして始まった(株)アナンダ。ワークショップ、インドへのグループ旅行などのエリアを、コロナが終わったら、付属の業務ではなく、メインの業務と同等に考え、設備、業務を決めること。この方向に合理性が見え始めて来て居る。(阿)