アナンダでは「先生」とか「社長」とか人を階級で呼ばないようにして居る。アナンダでの講習会でも「先生」と呼ばれると、上から下に教える雰囲気の態度で客に対応した証拠だから減給だと(半分冗談で)言われている。世界には、学校の生徒と先生でも、互いにニックネームで呼び合う国は沢山ある様だ。昔、私が留学したインドのタゴール国際大学でも、先生を呼ぶのにプロフェッサーなどの意味を含ませた呼び方はまるで無かった。
羊毛の産地、ニユージーランドでも学校の先生を親しくニックネームまたは個人名で呼ぶのが普通の様だ。毎日の友人同士の付き合いの会話で、日本人はサンキュウとソーリーを言い過ぎる。個人の親しさ表現が大事なのだから、その二つは言わない方がいいと耳打ちされた事があった。あまり大声で言いたくないのだが、実に、日本の社会は上下の格差意識、階級儀礼の満ちた「文化」なのだ。家族でさえ、母子関係にまで「母上」などと言う上下意識の単語が存在する歴史がある。上下の意識、お礼、挨拶、謝る、土下座、指を詰める、切腹、ここまで行かなくても、この国は礼儀正しい(ここに潜んだ礼儀の意味に注目)文化が構築されて居る。それが悪いの良いのと、ここで同じく評価して言う気はない。が、いじめとか、不登校、ひきこもり、などの発生に関係して居る。
もしかしたら、良い悪い、上手い下手などの、評価を生まない、この上下評価を必要としない、別の楽しいエリアがアナンダの「目の前の毎日の暮らしが大事」と言う視点の意味ではないのか。自分の感覚、技術、判断、偶然を大事に「暮らしに使える物を作ろう」と言うと、全部、自分で決めれば良いのだから、産業社会にできた評価基準など、全く無視できる。これかもしれない。しかし、これを強調するのがとても難しい。「あなたの織って居るものは世間の評価を気にして居るでしょう」「自分の感覚で作ってますか?」などと、評価して良いですかね?「目の前の自分の暮らしに役立つものを、自分で作ろう」と言うのだから、他人に評価させてはおかしい。
この21世紀に、何故に手で糸をつむぐのか?それは紡いでみればすぐわかるが、その糸で編んだり織ったりすると、紡いだ人の「個性」が出ているので、愛着が生まれ、産業革命以後の評価基準、常識などとは別の空間が生じ、評価意識はまるで馴染まないものとなる。体感してみれば説明は不要。多くの場合、最初の凸凹、下手な糸で織った布の方が機械での均一な糸で織った布よりも、当然、別格に魅力的なのは想像できるだろう。
機械のように揃った糸で織られた布が悪いと、ここで評価するつもりはない。まるで、次元の異なる物なのだ。あまり、大声で手作り手つむぎと言いたくないのはこの国に生まれ育った人が、また比較評価の癖が出て、「機械織りより手つむぎ手織りの方が良いのだ」などと言い出すといけないから。
昔、ペルシャの詩人が「鳥籠から出られて、自由になった」と言う喜びの詩を詠った。多分、彼は世間の善し悪し、上下の評価の縛りから解放された、この自分で紡いだ糸、自分の布、その別の空間に気付いた時に、籠の鳥から自由に、外の空間を自分のように生きられると感じた詩に違いない。
日本の文化は上下の評価社会(他の国に住んだことのある人でないと、あまりにも当たり前の唯一の空気なので、そこで生まれ育った人には意識さえできないけど)そこからの脱出はそう簡単ではない。たくさん紡いで居ながら、評価に縛られて居る人が大勢いて、そのような本もたくさん出て居る。アナンダのスタッフにも居て不思議はない。
講習会の参加者は正しい糸の織りかたを学びに来たのだけれど、自分を大事に、作りたいものを目指して道具を選んで作り始める。だから、アナンダには正しい技術を教える「先生」は居ない。アナンダのスタッフはお手伝いする「助手」。紡ぎ(羊毛、シルク、綿、麻)フェルト、染め(藍染、酸性染料)などの素材販売。そして、紡いだ糸は、すぐにリジッドバタで織る。すると評価の鳥籠から出れる。
単に個人で紡ぎを楽しんで居るあなたも、アナンダ出張講習を呼んで、共同ワークショップをしてみませんか?一度アナンダとやると、その名簿があなたの独立自営のプラスになり、広がって行きます。永続的活動をアナンダは喜んでお手伝いします。
保育園、幼稚園、学校、などの父兄と教師、一緒にワークショップ、続いてます。こちらも、ご希望があればまずは電話でお願いします。(阿)