戦時中の体験談を聞き歩いていて居て、ふと不可解なエリアの存在に気付いた。それは庶民の心の素晴らしい一面と、同時に、周囲への依存性または迎合性。米兵の捕虜が街の大通りを引かれていくのを、道端に立って見て居たおばさん達が、ヒソヒソと「可哀そうにねえ、あの兵士にも親、兄弟、友人が居るだろうに」と、話して居たのだそうだ。この体験談が、まず、不可解。その頃は町内会長の号令で、軍事教練「鬼畜米英」、大声で怒鳴りながら、ワラ人形を、竹ヤリで突き刺して居た。なのに捕虜となって引かれる若い米兵を見て、可哀想にとは・・。
これは本当の話なのか疑って、いろいろな人に確認したが、それは真実だった様だ。「自分の子供だって兵役に取られてるんだよ。捕虜を見て、可哀想だ、早く戦争が終わって無事に家に帰れます様にと、神様に祈りたくなるよ。当たり前だよ」と言われた。この「庶民の心」は世界中、多分どこでも共通して居る。もし、この庶民の心が力を持って政治を担えたら、地球上から戦争は無くなるに違いない。しかし、なぜか庶民の心には、自分の内からの正直な声は無視、力に加担し、ムードに乗せられて同調して、大声で「権力」を応援。自己犠牲でも喜んで従属する性質がある。また、ある時、一人の婦人が「ああ、思い出すと戦時中はよかったよお・・」と言うのを聞いた。その人は当時、女学生で、級長だったので毎朝の朝礼では「東向け東、天皇陛下万歳!」と、大声で号令をかける役で、とても存在感を味わえたのだそうだ。生徒達は正確に列をなし。全てが整然として居て良かったそうだ。
また、大学時代の同級生の一人が、自殺したと聞いたのだが、彼が言った言葉「戦争中は価値観、生きる目標、意味が明快で良かったよなあ」と呟くのを聞いて、変な奴だと思ったことを思い出した。それは彼の自殺と、多分、関連して居る。ヒトの群れが構成される大自然の仕組みの中で、価値観、快感、存在感、幸福感、などが個人の心の中に形成される。幼児の頃から時間をかけて構築されると、個々が独自の基準を持ち、単一の価値観に支配されず、世界は多様になる。これが大事なのに、その環境が彼の育った家庭環境には無かったのだ。「外に存在する価値基準」で常に彼は評価され縛られて・・・、もしかして、今や、日本全体が教育の話だけではなくコンビニの食品類から雑貨、服装、芸能に至るまで、商品管理基準みたいな単一の評価ムード。日本社会全体がそうなって来ているのではないか。
自分の外からの「誰かが決めた評価基準」の縛りはいつの時代にも有る。昔のペルシャの詩人が「ああ、私は鳥かごから出られて自由になった」と喜びを歌って居る。現在、日本に不登校児や引きこもりが増えて居るのは、多分、自然が、子供の心の内から拒否信号を発して居るのに違いない。日本の社会が戦時中の様に単一基準化するのを、この繊細さが救ってくれて居るのに違いない。・・・阿