小学生だった頃、65年も昔の話。子供達は学校から帰ると、裏通りや空き地に集まって来て、コマ回しやべーごま、カン蹴りなどして遊んで居た。紙芝居のおじさん、金魚すくいの爺さんが来る日には、少し広い範囲からも集まって楽しかった。その群れる子供達の中に、皆から少し離れて、時々、独りだけ立って、黙ってこちらを見て居る同級生が居た。裏通りの庶民の子供達は優しくて、みんなは彼を排除する事はなく、心のどこかで気にはして居た。が、手で誘うと、遊びに加わろうとはするが、ぎこちなく、いつも、気が付くと居なくなって居た。近所の人の話では、彼は暴力団の親分の子で、父親はろくに家には姿を見せず、母親も留守ばかりだったらしい。
彼の口から発せられる言葉は、まさに暴力的な命令形。「おいオマエ」「そこどけ」「言っただろ」「ほら」・・・この喋り方は、そういう家で育ったのだから、仕方ないよなと、子供たちは気にしない振りをして居た。ある日のこと、彼は手にお菓子をたくさん持って来て、いつもの皆に「世話になってるんだからお礼に配れ」と、母親が持たせたのだと言った。そのお菓子が「お世話」だの「お礼」だのと、子供たちには違和感のかたまりで、みんなは手も出さず、そっと去って行ってしまった。彼もそれを感じて、黙ってしまった。一人だけ「美味しい」と言いながらそのお菓子を食べて居たのは同級生の私だけ。彼とは中学校に上がっても同じクラスになった。ある時、おとなしい性格の男生徒が、弁当の時間も過ぎかけて居るのに、彼の前の席に座らされて、後ろから命令形で「弁当は、今、食べるな」と・・・。
クラスの誰もみて見ぬふりをして居たが、どう見てもそれはイジメでしかなかった。誰の言うことも聞かない彼は、私の言葉に怒り、険悪な脅しを吐きながらも、その「子分」を解放した。それから、しばらく経ったある日、担任の先生が「少年院から、クラスのみんなに彼から手紙が来てる。すぐに返事を書くように」・・私たちは彼が教室から、しばらく前から居なくなっていた事に気付かなかった。さて、みんなは手紙の返事に何と書いたのだろう。私は彼の母親からの、あの時の沢山のお菓子の思い出を「美味しかったよなあ」と書いた。
数日して担任が私の名を呼んで、彼からまた手紙が、お前にだけ来て居るから、と早口で言いながら、彼との関わりを心配する様な視線で渡された。手紙の内容には自分の記憶に関わる話が無く、返事は書かないままになった。その後、彼はクラスに戻って来る事はなく、姿は学校から消え、私の記憶からも消えた。それが、不思議なことに、最近になって「彼、人生を、苦労してるんではないか・・」「まだ生きて居るんだろうか」などと時折思い出しては「少年院を出て、もっとハクつけて親分になって威張って居られれば良いんだが」などと、これは一体何なのだろうか?
今、考えてみると、彼は友達が欲しくて「僕のそばにいつも居てよ」と言うのを「そこに居ろ」「動くな」と命令形で言ったのではないだろうか。家族や友人という心の「共有」を体験できない環境に生まれ育ったら、仕方がなかろう。
生命は生まれ落ちて、その場の環境(具体)に接して個が形成される。親分の子は命令形に適応して育った。母親が学校の先生だった友人は、常に人を評価、採点込みの先生口調で、「そうよ」「だから言ったじゃない」「それはね・・・」と話して居る。その親のもとで育ったのだから、親分の子も先生の子も、それは誰も同じ。子供は赦してやらなきゃかわいそうだ。
日本の庶民文化は別として、伝統の武士道の文化の特徴は、明らかに人の上下意識。言葉は命令形と服従形、上への配慮、礼儀作法、謝る、土下座、指づめ、ハラキリ・・・もしかして、日本のそれらは、実は、暴力団文化と同じものだったのではないか?武士社会では上下構造を保つマナーが「道徳」とされて、個人の原点である親子に「母上」「父上」と、これは、まるで冗談。その伝統は道徳教育として、今も人の上下感覚を、意識に刷り込む目的を持って居るように見える。オリンピックの金銀銅も気をつけよう。(阿)