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目に見えない大切なもの

最近、吉祥寺店に出向いて4~5日泊まる仕事が何回か続いた。その時、食事について面白い事に気付いたのでした。近くのスーパーに行くと、おかずが一人二人分に小さくパックされて並んでいる。味も店によって違うし種類は実に豊富、値段も手ごろだし食物に関して不自由はない。と思ったのですが、これは2日目くらいまで。3日目くらいからは何品並べても何か足りない。5日目になると食事に惨めさが漂ってきた。これは、もしかすると、普段の食事には何か目に見えない大切なものが付随していて、否、当然、人は毎日これを一緒に摂取して生きている。と気付いたのでした。

家の近くに足立さんという無農薬農業をしている知人が居て、毎週一回、契約して野菜を届けてもらっている。冬の間は休みだけれど、春になると、何が良いと言って、この辺の畑から作物が直に来るので周囲の木々の様子や風などの変化と呼応する季節感がうれしい。玉ねぎがまだ玉になりきっていない、少しふくらんだくらいの若たまねぎも来る。こんなのが来ると思わずそこらの紙にスケッチしてしまう。その形はもったいない程に美しい。普段は特に意識もせずに食物として食べている玉ねぎに、こういった季節感、形、それに足立さんの作る堆肥の山や匂い、人柄や思想までも附随して来て、一緒に食べているに違いないのです。毎日、食事と供に食べている、こういうものは物質ではないから客観的で確かなことが言えない。厄介な事に、人により時と場合によって違う。この一見、付随的で不確かで、現実を動かしていそうには見えないものが、実は、強力に、それは空気のように日常に満ちているから意識されないだけで、人を動かし世界を動かしているのに違いない。と思えてきたのでした。

例えば最近の多発する幼児虐待や子供の重大犯罪などの犯罪心理の話しにしても、多分、この人達の毎日に「目に見えない大切なもの」が限度を越えて欠乏していた。そうなるような原因が今の社会の仕組みの中に有りますよと言う警告なのでは、と思えて来たのでした。その欠乏が世界規模で蓄積されると、低開発国とか貧困とかより、むしろアメリカや英国、日本などの都会に、大袈裟な話しではなく、アメリカ、イラク派兵、自爆テロ、日本軍参加の準備など、何が人を動かしているのかと、ちょっと角度を変えて見ると、スーパーマーケットのおかずから感じた個人的で日常的なそれに、実は関係していると思えてきたのでした。

商品化社会
おかずがパックされてスーパーに並ぶと、その「目に見えない大切なもの」が消されているのは仕方ない事です。もともと「商品化」とは物品の個別性を消して万人に流通し易い形に規格化する事だからです。ちなみにタイ国では路地の屋台でおかずをいくらでも料理してもらえるというので、タイに住む知人に日本のスーパーのおかずパックとの比較で聞いてみると、日本のは都会的、流通システム、「商品」「既製品」。タイにもそういうのも有るが、屋台で買うおかずは田舎的、人と人のつながり、屋台の小母さんの手料理、なのだそうです。タイでは毎日のおかずを屋台で買っても欠乏感は、その人は感じた事はないとの事でした。

日本のこの人口が商品化と流通の考え無しに生きては行けないでしょう。しかし、その商品化の考えが暮らしの隅々にまで行き渡りそれしか無く、選択の余地が無くなってしまったら暮らしは大変です。きっと、そうなったら、あわてて手作りの趣味が必要だと、お店に走って行ってそのためのキットセット商品を、冗談では無く、買って来ることでしょう。

無農薬農業の話にもどりますが、足立さんの西瓜は毎年とても美味しく、横浜に住む兄に山梨まで食べに来るようにわざわざ電話をしてしまうくらいの味(子供の頃を思い出す味)なのでした。ところが、去年の夏は米の不作が心配されるほどに雨ばかり続いたので西瓜も水っぽくて、足立さんに天候の挨拶代わりに「今年はやっぱり水っぽかったね」と言ったのでした。すると、何と、次週の野菜の配達箱に西瓜代金が返金されていたのでした。これは何か不合理で腑に落ちない。雨つづきの夏の西瓜はこういう水っぽい味なのだなあと味わった、その事に意味が有るのに・・・。足立野菜の西瓜が単に流通の「商品」なら、農協のスーパーの方に行って買う。あちらの西瓜は値段は半額、サイズは2倍、しかも多雨に関係ない糖度が表示してあって甘い(実は買って食べた)。

一体、足立野菜は都会的な流通経済の「商品」なのか、田舎的な「人のつながり経済」の「作物」なのか?「堆肥は自分が作り畑を耕すが、天気は自分のせいではない。もちろん味も天気が作ったものだ」と開き直ってもらいたい。値段も個々にではなく年間総額でいくらと決め、目に見えない大切な本物の背景(地球の自転を感じさせる自然の事情)を着けたまま配達して、商品化社会に対して妥協せず毅然と作物の価値について理論武装しておいてもらいたい。(実際は色々、客もそれぞれ。理論武装で売上げが下がってはつまらないから・・・外向けは曖昧で も!)

呪縛、堂々巡り
趣味で手作りを始めた人が、何故か「商品」を作ろうとしているのをよく見る。まるで呪縛された者のように、自分の手で自分の物を作るのに、発想がすでに商品化されている。私達は生まれ落ちて商品社会の産湯をつかい、商品で育ち、依然として「商品」で暮らしているので、考えがそこから離れるのは難しい。無農薬の足立野菜が長雨の西瓜に市場の「商品」の規準を当て、手作りの面白さを知った人が松本クラフトフェアーや、どこかの手作りフェスティバルに参加しようとすると、参加は「出店」を意味し、多少の疑問は有っても、せっせと「商品」を作り始める。また、のどかな手紡ぎに憧れて紡ぎ車を買って紡いでいたが、能率が悪いのでモータースピナーを買ってブンブン紡いでいる。とか、何かしようとすると、例えば、アナンダで「商品化からの脱出」という商品(本)を売出したり(?)、など、この堂々巡りの罠は、冗談ではなく、この社会の深層の問題の性質を暗示しているに違いないのです。

手作りが自分や家族、友人の物を作る事から範囲を超えて外に存在の場を求め始めるのは自然な事でしょう。人は自己の存在の場を常に求める動物だから、自分の手作りを遠い誰か知らない多くの人にも手渡し、役に立ちたいと思い始める。その自然な気持ちがそのまま「商品の生産」、販売へ向かうと堂々巡り。そこで「商品」を「作品」に、「出店」を「個展」に呼び方を変えても中身は同じで、依然として私達はそれ以外の新しい存在形式を今の社会に見出せないで居る。

手作りが、ちょうど足立野菜に畑の土と「目に見えない大切なもの」が付着したまま配達されているように、例えば紡ぎ車で紡いだ糸にそれが付着したまま配達できなければ、糸という物体にはさほど価値も無いのだとすると、これは都会的な流通ではなく田舎的な人と人のつながりでモノを作り、経済もそのようでなければ不可でしょう。そのような新しい(とても古い)形式が、この社会に可能でしょうか? どう計算しても日本では暮らしの基本コストが高く、物は過剰ぎみです。毎日消費する無農薬野菜とかおかずでなく、羊毛では、経営は大変で、きっと、手作りに芸術とか伝統とか受賞とか、商品の値段を引き上げるためにあれこれ努力を払わなければ成り立たず、また、堂々巡りです。インドの職人たちのように手作り人は貧乏なものだと開き直ったとしても、手から出来た物を売って自己存在と経済を建てようとするのは、インドやタイに移住するしかないかも。日本の風土ではどだい無理(?)。

日本では目に見える物体(物品販売)から離れて、目に見えない大切なものの方に、何とか根底から移行して場を築かないと、堂々巡りの呪縛から解かれる道は無いという気がします。 非常に大きな可能性として、保育園から美大までの教育の世界、造型教室や工房活動、福祉や病院、作業療法士などの世界。ここに大きな必要性があり、可能性はいくらでもあると思います。手でモノを作る事に喜びと意味を実感している人は、教育の世界に重要な人材として求められる。例えば障害者施設では必ず美大生のような自由な発想と、その喜びを伝えられる人が採用されなければならなくなるでしょう。現状は人生が辛くなるような既製品のコースターのようなものを作業と称してくり返し織らされている所が多く、施設が商品生産作業の指導しか出来ないような所ではいかにも残念。 福祉コースを持っている美大が日本に有るのかどうか?、そういう人を育てる責任が美大には有るでしょう。生徒の社会内存在、存在場の構築についての何の哲学無く卒業と称して社会に放り出す。

美大程、今、己の重要性を知らない無責任稼業は無いでしょう。手で物を作る喜びを体に持っている人でないと、二泊三日のアナンダ紡ぎ講習参加程度の職員では全く無理。贋ものは教育には活かせない。 どうですか、物を作って売るよりこちらの方が良いでしょう?でも、現実はいろいろ人それぞれ、少し堂々巡りをしながら、すこし施設のお手伝いをし、学童でボランティア、また父兄会でフェルトを講習したり、手作り塾を始めたりなど、混ぜてやって行くのでしょう。吉祥寺のスーパーマーケットのおかずのパック、「目に見えない大切なもの」が紡ぎ車に、それは歴史的に「平和についてのとても大切なもの」。アナンダはそれを付けたまま田舎的に売って、紡ぎができるだけ多くの暮らしに定着するような「商品」を、また、考えるのでした。・・・・

(阿)会報 糸ばたかいぎ 2004年7月号掲載