ある日、福祉施設の職員グループがアナンダに講習に見えて、実に真面目に、使命感をもって長時間、黙して紡ぎの練習に励んで行かれたのですが、私たちの胸の中に「とても大事な何かが伝えられなかった」という感じが残ってしまって、深く考えさせられました。彼らは趣味として紡ぎを習いに来たのではなく、仕事として、本人の好みに関わりなく、一日、真剣に取組んでいったのでした。アナンダには普段は紡ぎをしたいという欲望をもったお客さんしか来ないので、紡げるようになると自然に、全身から喜びが、隠そうとしても漏れ出てくるような感じになるのに慣れていたのでした。その日は、紡ぎ方は講習しても肝腎の中身、「しみじみとした」喜びを伝えることは出来ていない。
その日以来、あの感じを思い出して、真面目な感じのお客様には、つい、「あまり真面目に紡がないで下さい」・・、「真剣に紡ぐものではなく、真剣に仕事をした後に、リラックスするために紡ぐものです」などと、(多分、余計なことを)言ってしまうようになりました。
人はそれぞれ、自由なのだから、地上には忍耐の紡ぎというのも、有って良いのだろうとは思ってみても、やはり紡ぎは、紡ぐ快感はもちろん、牧場の羊の毛の美しさから始まって、糸にして、何か実用のモノになる。それを使う楽しみも含めて、そのプロセス全体が(しみじみと)面白い。この面白さを抜いたら、あとに何も意味が残らない。と、私は真面目に思うのですが・・・。
(阿)会報 糸ばたかいぎ 2001年夏号掲載