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大いなる不揃い

「手作り」という言葉はいつ頃から使われだしたのでしょう。ことさら手作りというのですから「機械作り」が世の中に出回ってからのことにちがいありません。今ではほとんど何にでも「手作り」の付いた商品広告が見られます。また、マスコミでは手作りの音楽会とか、手作りの教育などという使い方もされます。こうしてみると「手作り」という言葉が今の時代の何かを意味しているに違いないのです。

デパートはもう十数年も前に「手作り商品」の売り場を作り始めました。その売り場を企画する人は「手作り」の持つ二重の意味をはっきり意識して使い分けています。有名ブランドものを身につけた、良いもの好きの人が、「これは手紬、手織なんですのよ」と言うときの古い意味での「手作り」、これは「格別の高級品」を意味しますから、これには権威ある産地や作家の銘が必要です。ところが新しい「手作り」はむしろ逆に、社会的な権威や格付けから離れて「個人的で不揃い、規格外の素人ぽいもの」なのです。これで人間味や手の温もりを商品にしようという訳です。が、面白いことに、この新しい「手作り」は商業主義とは本質的に矛盾していますから、彼らはそれが売れれば売れるほど「手作り」を「量産」するはめに陥るのです。それでラベルだけ手作りふうの量産品がまた一つ世にでるという訳です。

昔は、物が作られるときは、ある個人が特定の個人のために作りました。作り手と使い手が近くに居て知り合いだったのです。人口が増して商人が物を商うようになると当然、仕入先(作り手)と、お客(使い手)とは、商人としては、出来るだけ個人的に知り合ってほしくない訳です。そして、商人が作り手を集めて工場となし、使い手を消費者と呼んで生産の過程から個人的なものを消し去って、・・個人的なものはひどく不能率なものですから。・・製造と流通を合理化しました。これに依って、安く大量に、良質のものが行き渡りました。実際彼らの努力、つまり個人的なものを消し去る努力無しに、これ程の人口を支える大量の物資の生産は考えられません。しかし、ここに来て、物資足りて、私達はなんとなく勘付き始めたのです。毎日手にする物や道具から「個人」がきれいに消し去られてしまっている事にです。

効率という物差しに貫かれた「揃い過ぎた世界」に慣らされてしまい、ついに人間まで平気で品質管理から生まれた言葉、「偏差値」というので揃えようという時代ですから、今、不揃いな「手作り」がたまらなく面白い。そこには揃えようのない、作り手の独断と矛盾に満ちた「個人」が中心にあって、一つの物語として物が生まれる。・・・ところがです。私達は骨の髄までやられていて、やっぱり世間に通用するような、できることなら世間で立派と評価されるような物を作れたらなどと思ったりして良く揃った量産品をお手本にして、一生懸命に技術を磨いたりなんかして。ましてそれが子育てとなると子供に「不揃いで良いのだよ」などとはなかなか・・・

(阿)会報 糸ばたかいぎ 1990年冬号(No.5)掲載